初詣
「…」
驚いて目をいっぱいに見開いた蔵馬は、会うなりそれ以外の言葉が思いつかなかったらしい。
「おはよう、蔵馬。…変?」
少し心配そうに笑う。
「いや、そんなことない…綺麗だよ」
驚いた、そう言って蔵馬は眩しそうに目を細める。
その言葉を聞いて、もやっと安心して笑うことができた。
元日の早朝、人はまだまばらだ。
一人暮らしの上に年末年始も実家に帰る予定はないとはっきり言ったを放っておきたくなかったのだが、
本人が年末くらいは家族と過ごせと言って譲ろうとしなかったために、蔵馬は南野家で除夜の鐘を聞いた。
とはいえ気になってしまって電話とメールとのやりとりは途切れさせることができなかったのだが。
初詣くらいなら一緒に行ってもいいだろうと、まるで交換条件を取り付けるように約束をして、
今日がその日というわけだ。
待ち合わせの朝に、は振袖姿で現れた。
普段見ることのない恋人の姿に、蔵馬の内側が激しく呼応したのは言うまでもない。
「…それ、自分で?」
「着物? そう、自分で…着付けの本見て練習したの。上手でしょ?」
は得意げだ。
蔵馬もうんうんと頷いてみせる。
雪草履で歩くを気遣って、いつもより少しゆっくりとしたペースで蔵馬は歩き始めた。
他愛のない会話。
吐く息が白い霧になって、早朝の空気の中に溶けてゆく。
いつもとなんの変わりもないはずの今日が、なぜかとても清々しい気がする。
「蔵馬」
一歩後ろから、が少し上目遣い気味に蔵馬を呼んだ。
「なに? あ、歩くの速いかな?」
蔵馬が気遣って歩みを止めてやるのだが、は考え込むような表情で蔵馬を見上げるばかりだ。
首を傾げると、わずかに不満そうな顔をして目をそらしてしまう。
蔵馬はそれで、自分の気遣いがの思惑とは外れたことを知った。
「。どうしたの」
「どうもしないよ」
絶対嘘だ。
蔵馬は今度はの斜め一歩後ろを歩きながら眉をひそめた。
慣れない履き物では歩きづらそうだ。
よたよたとしつつも、決して歩く速度を落とそうとはしない。
(何を意地になっているんだろう?)
身に覚えのない不満をぶつけられて、蔵馬の内心にほんの少し波風が立つ。
神社の長い石段を前にして、がうんざりしたような表情を少しのぞかせたのを、彼は見逃しはしない。
「疲れたでしょう? 足が痛まない?」
「平気…」
はまた、蔵馬をただじぃっと見つめた。
「…なに?」
「なんでもないよ」
はまた素っ気なくふいと目をそらして、石段を登ろうとし始めた。
「。言いたいことがあるなら、ちゃんと教えてくれなくちゃ」
「ないよーっだ」
振り返りもせずにそんなことを言われてみれば、さすがの蔵馬もわずかばかり腹が立つのを覚える。
「」
早足で石段を登って、の腕を後ろから捕まえる。
両手首をとらえて肩の位置まで無理矢理引き上げると、は痛い、とちいさく言った。
良心が痛んだが、怯んでいる気分ではなかった。
「元旦から喧嘩なんかしたくないんだ。何がそんなに不満なの? オレには覚えがないんだけど」
「…いつもなら気付くのに!」
力ずくで押さえ込まれてきしむ腕をかばいながら、は強い口調で一言叫んだ。
「なんでわかんないの?」
の声が涙声に変わってきたのを聞いて、蔵馬はやっと拘束していた腕を放してやった。
の前にまわって今度は優しく手を取ると、先ほどまで力任せに握りしめていた手首をそっと撫でる。
細い手首にほんの少し跡が残って痛々しかった。
やりすぎた、ほんの些細なことで…と、蔵馬はたちまち後悔する。
手首に残る跡にそっとキスをした。
それでの機嫌がなおるとも思えはしなかったけれど。
「…教えてくれないかな」
いつもならそう言うまでもなく、が気にかけて欲しいすべてのことに蔵馬は気付いたのだ。
「…もういいの」
「そんなこと言わないで…どんなちいさなことでもいい」
何もかもすべてを知り尽くしてきたと思っていた恋人のことを、実は何も知らないのではないか。
蔵馬は急に、そんな不安に駆られていた。
いくら生きてきた年月が長くても関係ない、恋愛にマニュアルなどないのだから。
今日、は多分朝早くに起きて振袖を着て、きちんとメイクをして髪を整えて、
鼻緒が足の指を締め付ける痛みに耐えながら彼の前に現れたはずだ。
それはきっと、蔵馬という自分をいちばん綺麗に見せたい相手のために。
その努力に気づけていないのだろうか?
それとも?
は目を伏せたままぽつりと呟いた。
「…ごめんね蔵馬」
「いや…オレの方こそ」
「仲直り、しよう?」
「…うん」
謝りあってはみたものの、なんとなくぎこちない。
お互いのあいだに距離を感じながら、長い石段を息を詰めて登っていく。
はずっと俯いたままだし、蔵馬はそれに時折心配そうな目を向ける。
めでたいはずの新年最初の朝に、それはどう見ても幸せな恋人同士の姿ではなかった。
(…神様とやらがいるのなら)
蔵馬はため息混じりにそんなことを考えた。
人間界で神という名で語られる者が、実は魔界の住人だったりすることもあるのだが。
(に一言、問う勇気が欲しい)
彼らしくもない弱音だ。
ことのこととなると、取るに足りないことでですら悩み抜いてしまう。
それが蔵馬の今のところの弱みだ。
何が言いたかったの、と、今彼は聞けずにいる。
まだわからないの、という言葉が返るのが恐かった。
またちらとの方に目をやると、はすまなさそうな目でそれを見返してきた。
ここは自分が大人になろうと、蔵馬はいつものようににっこりと笑みを浮かべた。
何もなかったように振る舞って誤魔化すのなら得意技だ。
「…寒くない?」
唐突に、がそう言った。
その眼差しはこれ以上ないほどに真剣で、問われた蔵馬がちょっと気圧されるくらいだった。
「…は寒いの?」
「そうでもないけど」
けど。
その続きを彼女は言わない。
はきっとそれに気付いて欲しいのだ。
蔵馬は考えるでもなくの言葉を内心で反芻しながら、じっと彼女を見つめた。
君のことなら、何だって知っていたい。
一段下に立つは、何かを期待するような目で彼を見上げている。
視線が絡んで、それが蔵馬の内側の何かを焦らせる。
唐突にキスをしようとした蔵馬を、は避けてしまった。
「…」
「キスじゃないもん」
「じゃあ何? …教えて」
「気付いて」
「…オレにだってわからないことはあるよ」
君のことなら特に。
蔵馬は困ったような顔でから離れた。
彼が傷ついているのだということにが気付いたのは初めてだった。
ゆっくりと、けれど先に行こうとしてしまう蔵馬の背をはただ見つめた。
行ってしまう姿を見つめるうちに、急に鋭い悪寒が背筋をよぎる。
はっとして、は薄く雪の積もった石段を無理に急いで登り始めた。
「蔵馬…!!」
呼ばれて蔵馬が振り返った瞬間。
慣れない雪草履と積もった雪が悪かったのだろう。
は足を滑らせてバランスを崩し、その身は階段の下へ投げ出されようとしていた。
「きゃ……」
「………!!!」
とっさにお互いを求めた手が、しっかりとお互いを捕まえた。
蔵馬の手がの手をとらえて、力強く引き寄せるとしっかりと抱きしめた。
蔵馬の手を取るためにが無意識に手放した巾着が、数段下まで転がっていった。
呆然とするを腕に抱いたまま、蔵馬も呆然として落ちていった巾着を眺めていた。
一瞬遅かったら、転げ落ちていたのはの方だ。
「…! 、怪我は…」
腕の中で身体をこわばらせたままでいるの様子を、蔵馬はおそるおそる確かめた。
の目はいっぱいに見開かれて、今にも泣かんばかりの表情だったが、そこに恐怖心は見受けられない。
が大きな目で見つめていたのは、蔵馬がを捕まえたその手、だった。
「…?」
「………手」
「え?」
手を痛めただろうかと、蔵馬はあわてての手を取った。
「…手、つなぎたかったの…」
「…え?」
「だって、いつもは言わなくたって…」
普段必要以上に触れあおうとするのは蔵馬の方だ。
手をつなぐことなど確認するまでもない、当たり前のことのはずだった。
驚きながらも安心したような表情のの目から、ぽろりと涙が伝った。
「…ごめんね、それだけだったのに」
そう言って、蔵馬の首に抱きついた。
「ごめんね、蔵馬…意地悪言って」
あたたかな感情と少しの驚きとが自分の内側にわき上がるのに気付くと同時に、
蔵馬はが自分にこうして抱きついてくることなど滅多にないことにも気がついた。
新鮮な感動を覚えながら、蔵馬もの身体を優しく抱きしめ返してやる。
「…いいんだ。が無事でよかった」
の首筋から鼻先をかすめて、甘い香りが漂った。
せっかくが綺麗にしてきたのだから、ヘタに髪を撫でることすらできないのが惜しかった。
座り込んでいたことに気付いて、をちゃんと立たせてやると、転げ落ちた巾着を拾う。
それを手渡しながら、本当に仲直り…と、蔵馬はに手をさしだした。
もはにかんだように微笑んで、そっとそれに自分の手を重ねる。
手と手を取り合って、ふたりは並んで石段を登っていった。
やっと仲のよい恋人同士の風景がそこに戻っていた。
ぱんぱんと手を合わせて、はかなり真剣な様子で目を閉じていた。
長い長い願い事を捧げ終わると、満足そうに神社を離れる。
「…何をあんなに真剣にお願いしていたの?」
聞いてみると、はにやりと笑って。
「何だと思う?」
「教えてよ」
「内緒だよ。これはわかんないままでいてくれてもいいの」
わがままだな。
蔵馬が苦笑すると、も嬉しそうににっこりと微笑んだ。
「さー、帰ろーー」
このあとはふたりでの部屋に帰って、年末に一緒に過ごせなかった分を「思いっきり」埋め合わせする予定だ。
蔵馬の家族を気遣って強気なことを言っても、やはりひとりの年末は寂しかったのだろう。
は心底嬉しそうに巾着を振り回しながら歩いている。
「」
蔵馬はあえてそれを呼び止めた。
「…寒くない?」
「え?」
「…手をつなごうか」
そう言って差し出された右手を見て、は恥ずかしそうに笑った。
さっきまで冷たかった指も、お互いの体温にあたためられてぬくもりを取り戻してゆく。
「…今年もよろしく、」
「…よろしくね、蔵馬」
先ほどのお参りでお互いが同じく「今年からずっと、よろしく」と願ったことを、ふたりはまだ知らない。
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