春の夜の夢


なんだか、ふわふわ、もわもわとしたとらえどころのない感覚が足元から押し上げてくる。

煙に埋もれた町は、まるでおもちゃのよう。

不思議なかたちをした建物は見ているだけで心のどこかをかき立ててくるのだけれど、

不気味に色が沈んで重苦しくて、ちょっと恐い気もする。

この街に既視感はないし、心当たりもなにもない。

けれど、の足は行くべき場所を知っているようにふらりふらりとしながら石畳の通りを進んでいく。

通りの隅に、毒々しい赤い屋根の小さな店が見えた。

木造のまるい看板が下がっていて、剥げかけた金の文字で「くすりや」と書いてあるように見える。

の手は間違いなくその扉のノブを掴み、押し開けた。

ぎぃい、と気味の悪い音が響いた。

──こんにちは、お薬を処方してくださいな。

薄暗く誰もいない店の中に、はそう声をかけた。

怪しい壺や瓶、実験器具、煙の立ち上る試験管に、赤く煌々と燃える暖炉の炎。

人の気配はまったくといって良いほど感じない。

は店の中をぐるりと見回してみた。

薬品の並ぶ棚を眺めると、なんだか不思議な薬がたくさんあるのがわかる。

その薬の名が、また聞いたことも見たこともないものばかりで面白い。

「月の水」というラベルの瓶に手を触れようとした。

──それはね。決して手の届かないものという意味の薬なんだ。

後ろから声がかかる。

は反射的にぱっと振り返った。

不思議なたたずまいの青年がそこにいた。

落ち着いた静かな雰囲気を持ちながら、心地悪さを感じない威圧感を感じる。

燃えるような赤い髪に反する、深緑の瞳がもの言いたげにを見つめている。

──こんにちは、お嬢さん。

──どんな薬を御所望でしょう…ああでも、

──そんなものには触れてはいけない

青年はそう言うと、歩み寄ってきて「月の水」の瓶を取り上げた。

──あなたの未来を摘んでしまう

憂い顔でそう呟くと、改めてのほうを向いてにっこり微笑んだ。

──お話を伺いましょうか。

カウンタに回り込んだ彼は、に不思議な香りのお茶を振る舞った。

薬屋だから、薬草茶なのかもしれない。

お茶を一口すすって、は話を切りだした。

──悩み事があるのです

──悩み、それはどんな?

──言葉でそれを言えるのなら、どれほど楽になるかしら

ティーカップの中のちいさな水面に、の目線が落ちた。

青年はしばらく黙っての様子を伺ったあと、ゆっくりと口を開く。

──こんな薬があります

そう言うと、カウンタの内側から細い綺麗な瓶をふたつ取り出した。

──こちらの薬は「悩む者」

──もう一方、こちらは「悩まぬ者」

瓶を左右に振ったあと、彼はふたつの薬をカウンタの上に並べて置いた。

──いいですか、触れてはいけませんが──

──どちらかをあなたのために特別に処方致しましょう。

──そう言ったとき、どちらを選ばれますか?

はしばらくふたつの瓶を眺め、見比べたあと…躊躇いがちに一方の瓶を指さした。

「悩まぬ者」という薬の瓶を。

──なぜこちらを?

──私は今は悩む者だわ

──悩み続けるのは苦しいことだもの

──悩まぬ者でいられるのなら、そうしたいと思うわ

の言葉が静寂に飲み込まれるまで、青年はじっとを見つめていた。

──いけませんね

はぱっと目線を上げる。

青年はふたつの瓶をつまみ上げた。

──死んでしまいますよ

──なぜ? なぜ、死んでしまうだなんて

──ひとは皆、多かれ少なかれ…悩みを抱いているものです

──神様か誰かは知らないが、この世界を仕組んだ大いなる力は

──人間に考える力というものを授けました──ほかの生き物たちの能力をはるかに上回る力を

──それは、なぜでしょう

は黙り込んだ。

彼は何の話をしているのだろう?

薬の話ではなかったか?

──人間らしく生きるために、考えることは必要なのですよ

──悩んで選んで決めて、そうして恐れながらも先に進むことも

青年は今度は「悩む者」の瓶だけを、の目の前に置いた。

──とても生きていると思いませんか。

自分のために精一杯の考えを巡らすことは。

──満足のゆくまで悩んで、そうして選んだ結果が思わしくないものだったとして

──あなたは後悔するでしょうか?

そうして、「悩む者」を下げると今度は「悩まぬ者」をそこに置いた。

──考えず悩むことをせずに楽な道を選んだその先に、思わしくない結果が待っていたとして

──あなたは後悔せずにいられるでしょうか?

──なぜ、あのとき考えなかったのか?

──悩んで道を選ばなかったのかと

はただそこに置かれた「悩まぬ者」の瓶を見つめた。

そうして再び青年に視線を戻したそのとき、の目には違う意志が宿っていた。

──薬を処方致しましょう

──そうだな、今のあなたに必要なのは…

彼はに背を向けて、カウンタの中の薬棚を物色し始める。

──これなどはどうでしょう?

手のひらに包み込んでしまえそうなちいさな丸い瓶を、彼はの目の前に置いた。

──触れても構いませんよ、これにはね

──この薬は、何という名なの?

青年はまたふっと微笑んだ。

──「人より一時間長持ちする勇気」です

は目を丸くした。

やっぱり、そんな名前の薬は知らない、聞いたことがない。

──悩むのも勇気

──選ぶのも勇気

──決めるのも勇気

──進むのも、もちろん

彼は優しくの手を取ると、その丸い瓶をそっと手のひらに載せた。

──あなたの助けになります、きっと

手の上の丸い瓶を見つめながら、の内側にあたたかななにかが溢れ始める。

──ありがとう

──いいえ

お茶を飲み終え、薬を大切に手の中に握りしめて、は店を出る。

青年はドアの外に立ってを見送ってくれると言った。

町にくすぶっていた煙はいつの間にか晴れ、空は青々としてとても美しかった。

──薬のお代を

──いりませんよ

──でも

──そうだな、じゃあ目覚めたら話をしよう。

楽しみにしているよ、そう言うと青年はまたにっこりと笑ってみせる。

なんと言ったのと聞き返す前に、まわりの空気がゆらりと揺らいだ。

たんぽぽのわた毛が飛ぶように、あたりを覆う色が少しずつ褪せてはのぼってゆく。

青年はに手を振った。

はやっと、この青年が誰であったのかを思いだした。



「…………」

ぼんやりとした景色がやがて輪郭を取り戻し、はっきり覚醒すると見つめているのが寝室の天井なのだとわかった。

ベッドの上に起きあがる。

隣で寝ていたはずの彼の姿がない。

時計の針は六時過ぎ。

カーテンの外に明るい光が溢れているのが見え、鳥たちがさえずる声がいつになく新鮮に耳に届いた。

着替えを済ませ、リビングに出てみる。

キッチンからいい匂いが漂ってきた。

「ああ、おはよう」

赤い髪、深緑の瞳の青年がにっこりとを向かえた。

「朝食の卵は何にしましょう?」

「…オムレツがいい」

「かしこまりました」

ふざけるように彼は笑いながら、キッチンに戻る。

リビングのテーブルに着くと、卵を料理する傍ら彼は器用ににコーヒーを出した。

カップを両手で包むようにして傾けながら、は彼の背を見つめる。

「ねぇ、蔵馬」

「なに?」

「夢に出てきたでしょ」

「本当? オレが?」

「うん」

「へぇ。オレはね、昨夜は夢を見なかったよ」

君のところに出張してたみたいだねと、彼は笑った。

「いいものもらった」

「なに?」

「人より一時間長持ちする勇気」

「…それはそれは」

心当たりはないだろうけれど、納得したような声でそう答える。

カリカリのベーコンを添えたオムレツをテーブルに届けて、今度はサラダに取りかかる。

トーストもいい具合に焼けたようで、オーブントースターがチン、と音を立てた。

「それで?」

「なに?」

「人より一時間長持ちする勇気、役に立ちそうかな?」

コーヒーをすすりながらちょっと間をおいて。

「うん、まぁ。とりあえず今朝は」

「それは、大変結構」

トーストとサラダがテーブルに届く。

彼は自分もコーヒーとトーストを手に、テーブルに着いた。

「オレにも分けて」

「なにを」

「人より一時間長持ちする勇気」

「あるでしょ」

一時間どころか。

あんたがくれたのよと言い返してみると。

「全部に渡しちゃったかもしれないから。あとででいいから、ちょっと分けて」

トーストをかじりながら、そう言った。

心当たりがないのに、話を合わせるのが妙に上手だ。

「仕方ないな。ちょっとだけだよ」

「ありがとう」

「いつ使うの」

「明日の朝かな」

「あああ…」

にも合点がいった。

「緊張してるの」

「そりゃあ、少しはね」

「ふーん…」

時計に目をやると、七時を少し回ったところ。

テレビのニュースをつけると、天気予報が晴れのマークをいっぱいに並べてにこにこしている。

本日は晴れ。

一日中気持ちよく過ごせそうです。

空も泣くことはないでしょう。

願わくば、明日も明後日も晴れの日でありますように。

たまに雨もいいかもしれないけれど。

「よかったね、空が笑っていて。せっかくの入学式だからね」

「そだね」

適当に相づちを打つが、本当に良かったとは心から思った。

今日の空が泣いていたら、彼に譲る分の勇気まで使わなければならなかったかもしれない。

「明日も晴れるといいね。入社式」

「そうだね」

「頑張れ、社会人一年生」

「君もね、大学一年生」

目を見合わせて、くすくすと笑い合った。

お互いいろいろ考えて、たまに悩んだりもして、選んだ進路が結局違う方向を向いた。

でもまぁ、確かに後悔はないのだ、お互い。

逢えない時間が増えるのが嫌だとわがままを言ったに、じゃあ一緒に暮らそうかとするっと彼は答えた。

そこでまた考えて悩んで、一緒に話し合いをして、そうして今はやっぱり後悔していない。

なるほど、そういうこと。

はコーヒーを飲み干すと、そろそろ出かけようと準備に取りかかる。

玄関で靴を履くの後ろに、見送ろうと彼が立って待っている。

「今分けてあげる」

「今? 使いたいときになくなったらどうするの」

「使いすぎたらあんたの分がなくなるから」

そんなやりとりももうお互いに真意をわかっている暗号のようなもの。

にっこり微笑み合って、短いキスをする。

「いってらっしゃい、頑張って」

「いってきます、頑張ってくるよ」

手を振り合って、は部屋の外に出た。

外はいいお天気。

一歩踏み出すときに、手のひらに包めるほどでいい、ほんの少しの勇気を。

世界中のあちこちに、もしかしたらあんな薬屋が本当はたくさんあるのかもしれない。

夢の中身を思い出して、は笑いをもらした。

蔵馬が夢を見るとき、私が薬屋さんになれたらいいな、なんて思いながら。

そのときは、彼にどんな薬を処方しようか。

なにか悪戯を仕組むようにくすくすと笑いながら、は御機嫌で一歩を踏み出したのだった。



新入学生の人。
新入社員の人。
新しくなにかを始めた人。
新しくなにかをやめた人。
雪花とやこすけもこの春、一歩を踏み出しました。
あなたの薬屋さん、どこにありますか?


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