1/2Years


001 「その鍵を開けるのは」

お付き合い半年目だから、一緒に遊ぼうなんてに誘われて。
いいよと答えるのに躊躇う自分に驚いた。
半年は長いようで短いようで。
魔界と人間界を往復する日々に、どうしてもと逢える時間は減っていた。
それでも毎日が過ぎるたびに募る感情は、そろそろ自分でも収拾がつかないかもしれないと蔵馬は思う。
黒々としたその衝動に知らぬ振りをしたのがきっと悪かったのだ。
はっとした。
は不安そうな目で蔵馬を見上げている。
気がついたら、フローリングの床の上にを押し倒していた。
「……………(やばい)」
冷や汗が身体を伝うのがわかる。
やめろと頭のどこかで鳴り響く警鐘は、蔵馬の身体を支配してなどくれない。
理性は抗いながらも、その手は勝手にの髪を撫で、首筋を伝い、喉元に降りていく。
の身体がちいさく震えているのがわかったが、どうにもその手が止まってくれない。
押し進んでしまいたいのか、自分を押さえつけてしまいたいのか、どちらかも蔵馬にはわからない。
どちらも本音に思えてしまう。
優しい恋人の突然の行動に少なからず恐怖を覚えただろう、は抵抗することもできずにいる。
それをいいことに、蔵馬の手はのブラウスの胸元のボタンを外し始めた。
泣きそうなをなだめるように(誤魔化すためにかもしれないが)
その唇に死ぬほど優しいキスを贈りながら、指先は躊躇いなくの胸元を暴いていく。
と、チリリと金属がぶつかる音がした。
毒気を抜かれてしまって、蔵馬はから離れてみた。
何事かと思えば、が以前蔵馬に贈った「揃い」のペンダントが、近づいた拍子にぶつかり合ったらしい。
蔵馬が持っているのはちいさな鍵のかたちのペンダントトップのもので、
が持っているのはハートの中央に鍵穴が穿たれているもの。
私の心にはいつも蔵馬が鍵をかけているからと、離れていても心配はいらないからとは言ったのだ。
「…大、丈夫だよ…」
まだ震える声で、は言った。
「鍵は、蔵馬が持ってるんだよ」
まだ不安そうな顔で、それでも微笑もうとするにそれ以上無理強いなんてできるわけがなかった。
「………ごめん」
ブラウスのボタンを留め直して、を抱き起こすとそのまましばらく抱きしめ続けた。
「蔵馬」
「…なに?」
「………びっくりしただけよ」
「…そっか」
「蔵馬なら大丈夫だよ」
私の心の鍵を開けるのは、あなただけよ。
いつかも聞いたセリフが、心地よく蔵馬の耳元をくすぐった。
「鍵の使い方を間違ったみたいだから、」
やり直してもいい?
苦笑しながらそう聞いてみると、ははにかんだように微笑んだ。
堅固な錠が鍵を受け入れるように、
甘い優しい口づけから少しずつふたりの距離は縮まっていった。



002 「トレイン・トレイン」

半年記念といっても別に普通でしょなんて、はとりつくしまもなかった。
結局いつも通りのデートの帰り、寄り道に寄り道を重ねた結果、帰りの電車は最終電車だ。
外は真っ暗で、街の灯りやネオンサインの煌めきが窓の外を流れていく。
夜の電車は妙に明るくて不思議な空間だ。
他に乗客は一人もいない。
わざと席には座らずに、ふたりは寄り添って乗車口のそばに立っていた。
次に電車が止まれば、今日はお別れ。
それなのに疲れたのか、話し切ってしまったのか、ふたりのあいだに会話はない。
なんだかそれが妙に切なくて、胸が苦しく思われるくらいだ。
は窓からそっぽを向いて、どこを見ているのだろうか。
蔵馬はなにげなく、目線を外に投げかけた。
見えるのは流れていく灯りばかりで、
あとは電車内の不自然に明るい光景をガラスが映し出しているだけだ。
自分と、寄り添って立つの横顔とを、蔵馬はガラスの中に見出した。
冷たい平らなガラスに、蔵馬は指を当てた。
愛しい恋人の髪を撫でる。
青白く夜の色に染まった頬に触れる。
目のふちをなぞり、首筋から鎖骨のあたりへ指はそろそろと降りていく。
こんなふうに彼女に触れたことは、実はまだない。
ガラスの中で、は眠そうにあくびをかみ殺して、蔵馬を見上げた。
蔵馬を見上げると、ガラスを見つめる蔵馬と、その指の先に映る彼女と。
はふと、窓のほうへ目線を寄越した。
目線が反射して、ガラス越しにふたりは見つめあった。
はきょとんとしていたが、やがて嬉しそうににっこり笑った。
何の疑いも持たない純粋そのものの笑みに、蔵馬は胸が潰れる思いだ。
現実にに手を触れることもできないくせに、
ガラスの中の虚構を指先ひとつで汚し貶めようとしている。
「…ごめん」
「なにが?」
は首を傾げた。
蔵馬はガラスから指を離すと、きちんと現実ののほうへと向き直る。
夜の色など微塵も纏わぬその頬に、今度は確かに触れた。
「現実の君を相手にしなきゃ、意味がないんだよね」
「だから…なにが??」
不可解そうな顔をするに苦笑を返すと。
「時間はかかるかもしれないけど、夢に逃げるのはもうやめるってこと」
意味が飲み込めていないを抱き寄せる。
ガラスの奥に臆病な自分を沈めて背を向けると、の唇にキスをした。
少しずつ電車は減速し、今日の別れの駅まではあとわずか。



003 「君のとなりに」

恐いくらい静かすぎる夜だった。
気になっていた。
出逢って半年のはずだ。
…別れていなければ。
蔵馬は今、を放ったままで魔界にいる。
戦いの中に身を置くことが蔵馬にとっては大切なことなのだろう。
どうかすると、と一緒にいることよりも大切なのかもしれない。
寂しいことに思えるけれど、が好きなのは蔵馬のそういうところも含めてなのだから。
唐突に別れようと言われたとき、思ったよりは冷静でいることができた。
泣いて取り乱した方が、蔵馬を傷つけずに済んだかもしれない。
別れ話に平気そうな顔をしていられる恋人なんて、と思ったかもしれない。
事情があることはわかっていたから、冷静でいることができたのだ。
それから、蔵馬に会ったのはたったの三度。
そのあと彼は魔界に行ってしまって、連絡ひとつ寄越さない。
魔界で今蔵馬が関わっている相手は油断ならない人物で、下手をするとに危険が及んでしまうから。
でも、今は遠ざけることでしか君を守ることができないんだ。
蔵馬は苦しそうにそう言った。
はただ、待っていることを選んだのだ、でも。
ただ待っていることは、とても──つらい。
携帯電話が着信を告げた。
出る気にはなれなかったけれど、癖のように耳に当てる。
『………?』
懐かしい、恋しくて愛おしくてたまらないあの声がを呼んだ。
「…蔵馬…?」
『元気? …久しぶりだね』
「うん…」
の身を案じるあまり、連絡は完全に絶ってしまうつもりだったはずだ。
それが、一体どうしたというのだろう。
けれどは、それでも冷静だった。
が泣いて困るのは蔵馬のほうだ。
『あまり長くは話していられないけど…なんだか』
「用事…?」
素っ気ない答え方なのは承知だが、他に言葉が見つからなかった。
『いや…別に』
蔵馬はちょっと寂しそうな声でそう言った。
『…ごめん』
「…なに?」
『ごめん、…オレのほうから離れようって言ったのに』
いつも冷静で、感情を隠し通している彼の声が震えた。
『ごめん、勝手なのはわかってるけど、…逢いたいよ、…』
泣いているように聞こえるその声でそう言ったきり、蔵馬は黙り込んでしまった。
それだけでよかった。
お互いが思っていることなど、どれだけ距離を隔ててもわかってしまう。
それだけの愛情が育つだけの時間は共有してしまったのだから。
「…待ってるよ、蔵馬」
ずっと蔵馬のこと待ってるから、だから、安心して、そう言うと。
蔵馬は返事はしなかったけれど、たぶん電話の向こうで頷いた。
『ありがとう。…切るよ』
コエンマから説明された事情を聞けば、
蔵馬を呼んだ三竦みの一人は国中の会話を把握するだけの聴力の持ち主という。
に危険を及ばせないためにと距離を置いたのに、たまらずに電話をかけた。
この会話も聞かれているはずだ、の存在を知られてしまったはずだ。
それでも、そうとわかっていてもどうしようもないほど焦がれていたのだ。
別れを口にしても、どれだけ距離が開いても、この恋は揺るぎない。
通話が途切れてまた夜の静寂がを襲っても、もう恐いとは思わなかった。



004 「please your eyes on me」

綺麗ってどういうことかわからないと、は言った。
蔵馬は面食らってしまった。
「だって、…見えないもの」
目に見える「綺麗」はわからない。
出逢って半年、毎日待ち伏せるように病院のそばでと落ち合っては話に花を咲かせる。
そうしていつの間に恋人と呼べるくらい距離を縮めたのだろう。
にはわからないものがたくさんある。
視覚にも多く頼って生きている蔵馬にとっては、の生きる世界は未知に近い。
けれど教えてあげたいことも山のようにある。
「綺麗ってね、…そうだな、教えてあげたいな」
の視力がふさがれている原因は、恐らく妖怪によってつけられた傷だと気付いた。
この治療さえできれば、の目は見えるようになるだろう。
いろいろなものを見せてあげることができる。
綺麗なものもたくさん。
話の端で「見せてあげたいな」と言うと、はたちまち表情を曇らせる。
「だって、見えるようになんてならないもの。
 可能性のないことなのに期待なんかしたくない。
 そんなこと考えたくなんかない」
そう言って、見えない目からぽろぽろと涙がこぼれる。
それに狼狽えて困り果てて、自分の軽率さを責める蔵馬の妖気だけはの目にも映る。
傷ついた果てにはいつも「あなたのせいじゃないの」と何度も言った。
もっとそばにいて、もっとの世界をわかってやりたい。
そう思っても、結局は傷つけて泣かせてしまうばかり。
試行錯誤と遠回りとをずっと繰り返して、もう半年も経った。
に言葉で伝えるのはとても難しい。
嘘をつけない妖気を見てもらった方がよっぽど正確というものだ。
それが蔵馬には歯痒くて仕方ない。
その日蔵馬はの部屋を訪れた。
点字の本を抱え、その文章を指先で追い続けるの横顔をただじっと眺めた。
下手に会話をするより、こうしているほうがにとっては穏やかかもしれなかった。
自分の中の感情がひどくあたたかで慈しみに満ちていて、それがすべてに向かって傾けられていく。
自分でも信じられない思いで、それでも蔵馬はただの姿を眺め続けた。
ふと、は点字を追う手を止めて、蔵馬のほうを見た。
その視線が蔵馬をとらえることはないけれど…は安心したような笑みを浮かべた。
「…どうしたの?」
「うん、なんとなくわかったわ」
「なにが?」
「綺麗の意味」
「…わかったの? なんで?」
「蔵馬の今の妖気が綺麗な感じだと思うの、見せてあげたいわ」
そうしたらきっとわかるからと、は昂揚した気持ちを抑えるように言った。
(今のオレの妖気、って)
を眺めているだけだ、に対しての感情だけなのだ。
やっぱり見透かされたような気持ちになって、頬が火照るのがわかる。
「照れてるでしょう、なにを考えていたの?」
微笑みながらそんなことを聞いてくるに、君のことを考えてた、とは言えない蔵馬だったが。
彼の妖気がしっかりとに告げていた、君が好きです、というその限りなく綺麗な感情を。



005 「長の年月」

が魔界に行きたいなんてわがままを言うから、
最近蔵馬はどうしてもと喧嘩腰の会話を繰り広げてしまう。
「だから、魔界は人間にとっては有害で…」
「行ってみなくちゃわからないでしょ」
「危険すぎる。ダメだ」
「意地悪!」
「意地悪でもいい、君が危ない目に遭うよりは」
「…蔵馬が守ってくれればいいじゃない」
拗ねて涙目でそっぽを向くに、蔵馬はずきりと胸を痛めた。
守ることができるなら、もうを魔界に連れて行くくらいはしていたかもしれない。
今の自分には人間界での生活もとても大切で。
強くなることばかりが蔵馬にとってのすべてではなかった。
「じゃあ、私が妖怪になればいいわ」
「!?」
なんて素っ頓狂なことを言い出すのかと、蔵馬は耳を疑った。
「蔵馬が人間でいられなくなっちゃうなら私が妖怪になるもの、後悔なんかしない!」
「だめだ!」
「どうして!!」
こんな喧嘩を続けたいわけではない。
一緒にいたい、本当はどんなことをしてでも一緒にいたい。
けれどそれがの生きる道を曲げることに繋がってはいけないのだ。
、わかって…頼むから」
蔵馬がそう言って黙り込んで、いつもこの喧嘩は幕を引く。
どちらも納得できることのないままに。
そうして次に会ったときには、この喧嘩などなかったかのようにいつも通りに、にっこり笑って仲睦まじく…
嘘もズレもない関係なんて、この世に存在しないんじゃないかとすら思う。
「蔵馬、今日で半年なんだよ」
付き合い始めてから半年。
覚えてるよと言って微笑む裏で、こんなに諍いばかりしているのは不毛だと思う蔵馬。
愛しあうことはこんなに痛みを伴うものだっただろうか?
「だから、今日は、喧嘩やめよう?」
「…うん」
そう言って、納得していない火種を無理矢理内心に押し込めて、蔵馬ととは笑いあう。
楽しくて笑っているわけではないかもしれない。
笑顔の裏にどれだけの不満足が渦巻いていることかと、
お互いを詮索し疑い尽くし、それを隠すためにまた微笑み、
好きだとか愛しているとか言葉を駆使して、キスをしたり抱き合ったりしている。
真実の愛情はどこにあるんだ?
蔵馬は考えた。
考えずにいられなかった。
が妖怪になることを許して、魔界に住むことを許して、
そうして長の年月を一緒に生きることを選んだとしても。
自分たちはどこまでもお互いを疑うことを知ってしまった。
愛情に影がおちていることに蔵馬は気付いてしまっていた。
この愛に偽りがあるわけじゃない、それでも。
にっこりと笑って幸せな恋人同士の顔をしながら腹のさぐり合いをしている自分たちに、
永遠の幸せなんてものは巡ってこないだろう。
蔵馬は戦慄した。
ただただ恐ろしくなって、それでも笑い続けることのできるこの生き物に。



006 「年下彼氏。」

の恋人はまだ現役高校生。
年下の彼氏というだけで注目度が高すぎるだろうと思うと、あまり人には話せない。
それでも目ざとい人はいるもので、最近楽しそうね、いい人でもできたのと聞かれたりする。
まさかぁ、なんて誤魔化しながら会社を出るが、ごめん、ビンゴです。
苦笑が浮かぶのを留めるすべもない。
ちょうど付き合い始めて半年くらい。
年上の、社会人の女性というだけで、
もしかしたら遊びの対象なんじゃないかと不安になったこともあるけれど、
彼はなかなか真剣らしくて嬉しくなってしまう。
可愛い彼氏が大事にしてくれてるんだから、こちらも真剣にならなきゃねなどと考えながら、
デートの待ち合わせ場所に向かう。
彼もたぶん学校帰り。
盟王高校の制服と、赤い髪が見えた。
「秀一君!」
「あ、お帰りなさい、さん」
読んでいた本から目を上げて、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「ごめんね、急いで走ってきたんだけど、待ったでしょ」
「いえ、そんなことないです」
敬語で話す彼は、まだまだに慣れていないのかもしれない。
「行こうか、お詫びにお茶くらいごちそうするわ」
並んで歩きながら、気付けば喋っているのはだけで、秀一は相槌を打ちながらなんだか居づらそうにしている。
「秀一君、どうかしたの?」
「え、いえ…えーと…」
口ごもる様子に、は立ち止まると頬を膨らませてみせる。
「言いたいことがあるなら言いなさい!」
「いえ。なんでも、ない、です…」
「嘘!」
「………」
「ねぇ、変な意味で遠慮したりしてない?」
「…いえ、そうじゃなくて…」
秀一はとうとう俯いてしまった。
は不機嫌そうに息をつくと、先に立ってまた歩き始めた。
秀一は慌ててあとを追ってきた。
さっきとは打って変わって早足で歩きながら、会話も一言もない。
秀一はの背を必死で追いながら、決心したようにを呼んだ。
「あの!」
「なに!」
「………」
不機嫌な声で振り返ってしまったことを、はたちまち後悔した。
秀一はつらそうな顔をしている。
「あ、…ごめんね、つい」
「いえ…さんは悪くないです」
「…なぁに?」
「あの、」
秀一はまた口ごもってたっぷり十数秒は逡巡したあと。
「手を繋いでもいいですか。」
一大決心といった様子でそう言った。
思いも寄らないことを言われて、は思わずぽかーんとしてしまった。
秀一が焦っているのに気付いたのは、更に十数秒経ったあとだ。
「あ、ごめんね、いいよ、…」
向き合って赤くなりながら、の差し出した手を秀一はおずおずと握りしめた。
思えば恋人同士なんて名前ばかりで、お互いにそれらしい触れあいなど持ったことはないのだ。
秀一は一歩近寄りたいと、そう思ってくれていたのに。
「ごめんね、秀一君」
「…いえ」
はにかんだように笑う彼が可愛くて仕方なくて、お姉さんは思わず嬉しくなっちゃうのよ。
そんなことを言うと、彼はたぶん、怒るだろうけど。



007 「高校教師×女子高生」

「先生。助けてください」
思いっきり真面目に、はそう言った。
「だめ。自分でやりなさい」
「けち〜!!」
「けちじゃない! 公私の区別くらい付けなさい!!」
怒られて、は拗ねて上目遣いに蔵馬をにらみつけた。
なにを助けるという話かというと、中間テストの科学の問題の話だ。
「誰も問題の範囲教えてなんて言ってないじゃないですかー!」
「甘い! 恋人のコネクションをこういうところで使おうとするんじゃない!」
「先生の意地悪〜!!」
はそう言うと踵を返して科学準備室を出ていった。
危うかった、と蔵馬は胸をなで下ろした。
秘密の恋人期間はもうすでに半年にも及んでいて、そろそろ我慢も限界だ。
そんな蔵馬の思惑もなにも、まだまだ幼い女子高生のにわかってもらえようはずがなく。
自分を抑えるのに必死になっているために、出てくる言葉も素っ気ない。
範囲を教えることにはならなくても、わからない問題を教えてやるくらいは構わないはずなのに。
(公私混同してるのはオレのほうだよ)
わかってるよ。
内心でぐちぐち呟きながら教室へ出向く。
それとなくの様子を伺うと、蔵馬のほうを見向きもせずに隣の席の男子生徒に問題を教わっている。
ぴしりと青筋でも走りそうな勢いだ。
(…子供のくせに生意気な…)
担任教師の不機嫌なオーラを生徒たちは肌で感じているのだが口を出す隙がない。
帰りのホームルームを終えたあと、無茶苦茶な理由をつけてを準備室に呼びだした。
「問題教えてくれるんですか?」
「………そこに座りなさい。」
「…先生」
は一歩後ずさった。
不穏な空気をひしひしと感じているらしい。
「まったく君って人はいつまでも子供のままなんだな…」
蔵馬の目に怪しい色が宿ったのをは見逃さない。
「先生、私、テスト勉強あるから帰ります…っ」
くるりと背を向けたところを後ろから捕まえられてしまった。
「せ、先生…」
「わかっていないようだね、しつこいようだけれどふたりでいるときは」
「蔵馬!」
合い言葉でも叫ぶようには言った。
「ずいぶん仲良さそうだったじゃない…? オレの目の前で。いい度胸だね」
内申点を思い切り下げてやろうかと、教師とは思えないセリフを吐く。
力ずくでを振り向かせて、その唇を奪った。
「ん…」
苦しそうに、まだ慣れないキスに窒息しそうになりながらはひたすら耐えている。
にとって蔵馬から与えられるキスはまだ、恋人同士の甘ったるいやりとりではないらしい。
拷問か罰か、だとしたらずいぶんお優しいことでと蔵馬自身は思うのだが。
「じゃ、じゃあ、蔵馬が教えて、問題」
「…まだ話は終わっていないよ。どうして女の子の友達に聞かないの?
 わざわざ男子生徒をつかまえる必要がどこにあるの」
明らかに嫉妬だ。
「蔵馬、妬いてるの…」
疑問系になる前にまた唇をふさがれた。
自分に都合の悪いことはこうして誤魔化してしまう、蔵馬の常套手段だとそろそろにもわかっている。
「悪い子だ…ごめんなさいは?」
「…そうやって、いっつも子供扱い…」
「…大人の女性として扱っていいの?」
またからかいかと反論しようとしたの目に、真剣な顔の蔵馬が映る。
蔵馬の言葉の意図に気付いたときは一瞬遅かった。
セーラー服のタイが胸元でほどかれ、蔵馬はの首筋にキスを繰り返す。
「く、蔵馬…!」
やめて、と言いかけてまたキスでふさがれる。
舌を吸い出されて、頭の芯がしびれてくるまで解放してはもらえなかった。
やっと唇が離れると、急に足の力が抜けてはすとんと床に座り込んでしまった。
「…大人扱いって、こういうことだよ、
蔵馬はしゃがみ込んで、乱した制服をきちんと整えてやるとの身体を優しく抱きしめた。
「…そろそろね、我慢の限界だから。挑発するようなことはぜひしないでほしい」
一度言葉を切って。
「…切れたら、簡単にを傷つけるよ」
そう言うと、そっと離れた。
「帰りなさい」
「…蔵馬」
「オレはまだ仕事が残っているから」
「………」
蔵馬の後ろで、が立ち上がるのがわかった。
今日は確実に嫌われただろうなと思っていると…背中にが抱きついてくるではないか。
?」
「…ごめんね、蔵馬」
「…なにが?」
「私、早く大人になるから」
ちょっとだけ待ってて、そう言うとはぱっと離れて走って科学準備室を出ていった。
が走り去ったあとのドアをぼんやりとなにを考えるでもなく眺めながら、
やっぱりを子供だと思って見くびっていたみたいだと、蔵馬は一人赤面した。



008 「ジュ・トゥ・ヴ」

「あの曲ってね」
後日談である。
蔵馬が唐突にそんなことを言った。
「歌詞がついているんだよね」
「知ってるよ」
「その歌詞に男性編と女性編とがあって」
「…知ってるよ」
雲行きが怪しくなっていくことを予感したのだろうか。
はちょっと蔵馬を警戒しながら答えた。
「…別に妙なこと仕組んでるわけじゃないから心配しないで」
「蔵馬の心配しないではちょっと信用できないな」
そう言ってはにちょっかいを出すし。
…そう言っては戦いに出て、大怪我をして戻ってくるのだから。
「あなたが欲しい、か」
ぽつりと呟くように言った。
「…口で言えない気持ちを、音楽や歌詞に託すのはいい方法かもしれないね」
「そうかもね」
でも、蔵馬が口で言えないなんてことないんじゃないのとは聞いてみる。
「またまた、買いかぶっていらっしゃる」
「嘘ぉ」
疑いに近い目を向ける
「ねぇ。人と人が好きあって愛しあうまでに、どれくらいの時間がかかるのかな」
「時間が関係ある?」
「…名言だね」
蔵馬は苦笑した。
「じゃあ、たとえば付き合い始めて半年の男女がいたとしましょう」
思いっきり自分たちだと心当たりのあるだが、黙って蔵馬の策略を見透かそうと神経を研ぎ澄ましてみる。
「彼は半年で彼女に骨抜きにされていると言ってもオーバーじゃないくらい、彼女に惚れ込んでいます」
「…ふーん」
聞きながら、はつい赤くなる頬を隠しきれない。
「でも彼は、彼女可愛さのあまり思い切った行動に出ることができません」
「………」
「一度彼女に軽く気持ちを託すつもりで、
 『あなたが欲しい』という意味のピアノ曲を弾いてくれるように頼んだことがあります」
「………蔵馬」
「まぁ最後まで聞いてくださいよ。
 でも彼女との関係はまぁ、それほど進展がないわけです。彼は今困り果てています」
そこで。
蔵馬は人差し指を立ててみせる。
「女性の立場で考えてみると、どう? 彼女の気持ちがわかるかな」
「…自分で考えなさいよ」
「そりゃあもう、毎日のように」
「………」
「…からかいすぎ?」
「…察するにね。」
「うん」
は一拍置いてから蔵馬を横目でちろりと眺めると。
「彼は遠回しに気持ちを託すだけで、自分で伝える努力はしてないのよ。
 彼女に伝わるわけないじゃんと私は思うけど」
「…なるほど」
蔵馬は目を丸くした。
「じゃあ、もうちょっと聞いてくれたりする?」
「なに?」
「好きです」
「………」
が好きです。とりあえず今は、これだけ」
いつものようににっこりした蔵馬がちょっと照れているように見えた。
蔵馬にも口で言えない秘めた思いがあるのだと、は初めて悟ったのだった。



009 「政略結婚の王子様とお姫様」

結婚して半年経った。
蔵馬ととの距離感は相変わらずだが、は結婚当初からすればものすごく人間らしく、自分らしくなった。
蔵馬はそれを親が子を眺めるくらいの気持ちで見守っていたはずだったのだが、
いつの間にか焦燥に身を焦がすようになってしまった。
愛らしい少女が少しずつ美しい大人の女性に成長していく、それを目の当たりにしているのだ。
世間的にも疑いようのない夫婦で、お互いのあいだに愛情を育てながら、
一緒の部屋で一緒のベッドで抱きしめあって眠る、
そんな日常にとの距離を力ずくで縮めるのは簡単なのだが。
今日もベッドの中にいて、の華奢な身体を抱きしめている。
それはいいのだが、この状態でを女として意識するなというのは無理な話だ。
「蔵馬」
「…なに?」
「手を貸してください」
「うん?」
「小指、貸してください」
の言う意味がわからないままに、蔵馬はの目の前に手をかざしてみた。
は自分の左の薬指にはまった指輪を引き抜いて、蔵馬の右の小指にすぽんとはめる。
「…なにしてるの?」
「ティア・イオライトは持ち主の感情を反映して色が変わるんですよ」
「聞いたよ」
「………」
は意味ありげに口を閉ざして、自分から言おうとしない。
「…オレの気持ちを読もうってこと?」
「気持ちを読むだなんて、そんなこと…」
はちょっとすまなさそうな顔で言うと。
「…だって、蔵馬、私のこと好きなんて言って下さったことないんですもの」
確かめたくもなるとは俯いてしまった。
「………」
蔵馬はかなり焦りながら、小指の中程まではまった指輪の石の色をじっと眺める。
自分がに抱いているヨコシマなこの感情まで色に出てしまったら身も蓋もない。
が上目遣いに指輪の色を観察しているのがわかる。
頼むから、変な色にはならないでくれよと蔵馬は念じた。
が蔵馬を思ってくれているときは、石は淡いピンク色に染まるのだが。
石は少しずつ色を宿し始めた。
淡いピンク色が少しずつ強みを増して、赤い色に染まっていく。
血のような赤でないことだけが救いかと思われたが、赤い色はどんな感情を表すのだろうか。
「…蔵馬、人間って色に心理的なイメージを抱くんですって」
「へぇ。赤のイメージっていうのがあるんでしょ」
「はい。赤は、情熱」
「………」
「嬉しい」
はそう言ってにっこり笑った。
情熱、ねぇ。
上手いことまとまってくれて良かったけどと蔵馬は内心で安堵の息をついたが、
またしても自分の内側の獣があっけなくの一言で沈んでしまったことに改めて驚いた。
はまだまだ蔵馬の中では女ではなくて聖少女なのだろう。
いつかの指でこの石が赤く染まって、情熱に身を焦がすような恋心を蔵馬に抱くことがあったとしたら、
そのときは堂々とをこの手に抱くことができる。
今はだから、このままがいいんだ。
そう思って苦笑するが、無理矢理自分を納得させている感が否めないのがなんとなーく痛い蔵馬だった。



010 「蜜の味」

は今日もメイクをしている。
最近は唇の蜜を狙ってそばにぴったりくっついている蔵馬を警戒していて、
なかなかチャンスが巡ってこなかったりする。
蔵馬にとっては甘い蜜を味わうなんてもちろんキスの口実でしかないわけだけれど。
まぁ、半年も恋人をやってきて、口実がなければキスができないなんてほどの仲ではない。
ちょっと手が早かったかなとあとから思うくらいには仲良しというか。
はまた口紅で薄赤く唇を彩って、あの蜜のリップグロスを手に取り…
唇にのせる前に、なにか考えるように遠い目をする。
「…どうかしたの?」
聞いてみると。
「キスするつもり?」
「うん、まぁ」
「………」
「キスされるのが嫌だからグロスぬるのやめようかなぁ、とか?」
「そうじゃなくて」
「『メイクしたそばから乱されるのが嫌だなぁ?』」
「ううん。いや、嫌だけど、そうじゃなくて」
「えーと、じゃあ…なんだろう」
「…………」
は不安そうな顔をしている。
なにか大切なことを見落としていると蔵馬は悟ったのだが、
それがなにかはよくわからなくて焦りばかりが募っていく。
「…ごめん、わからない」
嫌だって言うならもうしないからと、寂しそうに笑う蔵馬を見ては俯くと。
「…グロスぬらないとキスしてくれないじゃん」
「………」
「………」
「嘘でしょ?」
「本当だもん! やっぱ気付いてない!!」
「え…だって、ねぇ?」
「本当だったら…」
「え、でも昨夜は…」
昨夜、と言われてはとたんに赤くなる。
まだちょっと慣れないらしい。
キスをしないでベッドに倒れ込んだとしたら、
それはかなり性急でにとっては面白くないんじゃないだろうか。
「…それは…失礼しました」
「本当だよ、もう…」
「…御機嫌、直して?」
「………知らない」
「キスしてもいい?」
「…甘くないよ」
とのキスならいつもいつでも蜜の味」
大丈夫、と言うと、蔵馬はを抱き寄せてそっと唇をあわせた。
がうっとりと目を閉じるのを感じた。
「…本当にしてない? オレ」
「してないったら…何で気付かないのかなぁもう!」
「…ごめんなさい」
「ごめんじゃ済まないもん!」
「じゃあ、どうしたらいいでしょうね」
蔵馬が困ったように笑うと、は上目遣いに蔵馬を見つめながら。
「しなかった分の埋め合わせして」
そう言って、蔵馬の首に抱きついてくる。
そのまま何度となくキスを繰り返して、
埋め合わせ分がとっくのとうに終わってもまだ離れずに、夢中になってお互いを求めあう。
そうして過ぎる恋人同士の時間は、まぎれもない甘ったるい味に満ちていた。


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