エゴイスティック
夕暮れもとうに過ぎ、赤を通り越して薄暗さの中に沈んでいく教室で、
蔵馬はひとり席に座し、待っていた。
約束があったわけでも、そんな予告をしたわけでもなかった。
彼が勝手に待っているのだ。
恐らくは、それをあまり喜ばないのだろうということをわかっていて、蔵馬はそれでも待たずにおれなかったのである。
同じ学校の中に人間として存在しつつ、は蔵馬の裏側の事情というものを知っている数少ないひとりである。
表向き演じる蔵馬との関係は単なるクラスメイトで、
黄色い声とともに蔵馬を視線で追いかけ回す“その他大勢”女生徒とは違うポジションについている。
は彼女らとは違う目で蔵馬を見るがゆえ、蔵馬とごく自然に親しい間柄であり続けているのだ。
そこに、蔵馬に対する憧れや恋慕といった情は介入しない。
(そう、まったく、介入しない……オレとしては残念なことに)
暇を持て余し、蔵馬は頬杖をついて窓の外を眺めた。
吹きゆく風にはすでに冬の匂いが濃い。
暖房が沈黙してしばらく、さすがに指先が冷えてきたところだ。
を待っているのでなければ、とっくに帰路につこうと立ち上がるだろう。
けれど彼は、ただただ待っている。
待ちぼうけたその先に、蔵馬にとって望ましい結果があるとは、あまり言えない。
ただひたすら待つ、ということを、彼はあまりしたことがなかった。
待つ間の時間にもなんらか、できることはあるものだ。
身動きがまったくとれなかったのは、母の腹の中に入り込んで過ごした数か月の期間が最長記録だろう。
その間でさえ、妖狐蔵馬は時間を彼なりに有益に消費した。
自身の現状を飲み込み、納得するまでには、彼の理性が想像した以上に時間はかかったが。
理屈ではわかっていたものの、感情というものはやはり、既存の秤ではとらえきれないもののようである。
自身の身の程を知ったあと、これから自らに迫ってくるたくさんの事象を彼は想像した。
明らかに弱くなっている妖力や、人間の身体と融合したことで起こる様々な不都合、不具合。
妖怪が人間界に入り込んだということで霊界が警戒するかもしれないという危惧。
万全を期してどんな些細な漏れすらもなきよう、などというのは最初から無茶な話である。
身体を自分の意志で動かせるようになったときに迷わぬようと、
蔵馬はこれから歩むべき道を、その地図を、頭の中に想定したのである。
それは確かに、ある程度のところまでは相当有効であった。
予想外の出会い、そうして知り合った者たちの予想外の行動(これに悩まされることが多い、実際、今も)。
けれどその中で、自分で自分を把握することだけは必ずできるものだと彼は自信を持っていた。
経験の蓄積は前例がないという事態を生み出さない。
周りは蔵馬の想定の範囲外に嬉々として飛び出していくこともしょっちゅうであったが、
それに対する自分の応対にはパターンがあり、その中で行動をまかなうことは簡単なことだった。
そう、簡単なことだったはずなのだ。
それなのにどこでなにが間違ってしまったのか。
彼の誤算はふたつある。
ひとつは、想定の範囲外を好む(無意識だろう、ときどき腹立たしい)仲間達の存在によるもの。
四人のうち、誰が欠けても嫌だ、そのセリフを己の口が言ったのか。
思い返してあとから首を傾げてしまった。
けれど、そうなのだ、思考は否定をするかもしれないが、感情は喜んで頷くだろう。
首を傾げて疑問符を浮かべたのは、単に己への照れ隠しに他ならない。
らしくない自分を認めるまでに少しばかり時間を食ったのだ。
今となってはしかし、誇るべきことだと彼は思う。
もうひとつが問題である。
これが今現在、蔵馬が抱えている当面の悩みとも言える。
のことだ。
ただのクラスメイトと、霊界関係者として深く関わり合うことになるなどとは蔵馬も想像していなかった。
とんでもない潜在霊力をその身に秘めているがゆえに、は何度も命の危険にさらされてきた。
戦闘能力など持たない普通の少女だが、彼女の人徳が守りを呼ぶのだろう。
何度危ない目に遭っても、はすんでの所で助かってきた。
その助けが蔵馬たちであったこともあるし、天気や偶然などという、
いつでもあてにできるわけではないものに救われたことだってある。
霊界と関係し、蔵馬たちに出逢うまで、はそれらを運が良かったの一言だけで済ませてきたのだ。
の人柄は、多くの人を惹きつけた。
いつでもどことなく朗らかなのである。
彼女を取り囲む蔵馬たちは、声に出して言うことはなくとも真摯にを守ってやりたいと思うようになり、
霊界の対応や気配りもきめ細かく誠実であった。
守られるばかりでなにもできないと言い、はいつもすまなさそうに縮こまっている。
無力を感じているのか、自分でできることならなるべくはひとりでやりたいというのが口癖で、
少々の無茶くらいなら気にかけないという性格も併せ持っている。
その少々の無茶が、端から見ている蔵馬たちにしてみればヒヤリとさせられることの多い要因であった。
蔵馬はもう少し頼ってほしい、そのためにいるのじゃないかと何度もに説いていたのであるが、
それがいつの間にかもう少し自分を見て欲しい、想いを寄せて欲しいという気持ちにすり替わってしまった。
その感情を認めるのにも、蔵馬はかなり時間を要したのであるが、ついには根負けした。
これが計算外なのだ。
たかだか人間の少女ひとりに、恋に落とされるということが。
そうして、蔵馬は待っている。
が教室に戻ってくるのが、本当は少し恐いと、そう思いながらも。
「……蔵馬? まだいたの」
「ああ、うん、ちょっとね」
教室の入口で驚いて立ちつくしているに、蔵馬はなんでもないことのように視線をやった。
ああ、やっぱりと思う。
は泣いたあとの目をしていた。
彼はけれど、苦笑して、問うた。
「……どうしたの」
「うん……」
わずかに俯き、視線を彷徨わせ、は口元で小さく笑った。
笑う元気があるのなら大丈夫かと蔵馬は思う。
思う裏で同じくらい心配をしているのも嘘ではないが。
人間にとっては一大事だ、失恋などという命にも関わらないような小さな出来事も。
が同じ学年のひとりの男子生徒にほのかに想いを寄せていることを、蔵馬はとうに知っていた。
他に想う男がいる女を好きになるなんて、最初からこんなに不毛なことがあるかと思ったのだ。
けれど感情は走り始めてしまった。
とどめようがなかったのだ。
蔵馬が考えたよりもずっと静かな、落ち着いた声で、はダメだったの、と呟いた。
「……そう」
俯きがちなままで、の表情ははっきりとは伺えない。
蔵馬はまだを見つめながら、自分の内側にわき起こってくる感情の名を探していた。
ただの嫉妬なら、きっといいのだ。
けれど、の心の底からを震わせ、喜ばせてやったり、楽しませてやったり……あるいは、悲しませたり、
そんなことを蔵馬自身がしてのけたためしはなかった。
目の前で涙にくれるは、とても可憐だった。
思わず抱きしめたくなってしまうと、そんなことを思うことすらに申し訳ないとは思う。
けれど蔵馬がに対して抱く想いは、蔵馬ひとりの支配下にあるに過ぎなかった。
ひた走る感情は、我を忘れるとその先にいるの意志を忘れて暴走してしまう。
そうならないように、蔵馬はいつも自分を殺すすべをいくつも頭の中に浮かべているのだ。
失恋の痛みに涙を浮かべるに、どんな顔をしてやるのがいちばんいいのかは、
彼の経験の蓄積の中を探そうとも、巧い答えは見つかってくれない。
わかったような顔をして、一緒に泣いてやればは救われるのか。
蔵馬はそれには頷けなかった。
悪魔のささやきというやつである。
“恋を失った女は、新しい恋によろめきやすい”
オレならもっと、君を大切にすることができるのに。
それを口に出すのはきっと卑怯なことなのだろう。
けれどはそれで、蔵馬に傾いてくれる。
欲しいものは奪ってきたはずじゃないか。
けれど蔵馬は、それすらも口に出すことができなかった。
様々な思いが交錯し、そのどれもに迷い、選ぶことができず、彼はただを泣かせ、自分は沈黙し続けた。
ひとしきり涙し、落ち着いた頃、は蔵馬に小さな声で“ありがとう”と呟いた。
「……感謝されるようなことは、オレはなにもしていないよ」
「ううん」
は首を横に振った。
「一緒に、いてくれたから。それだけで……」
ごめんねとは今度は謝りの言葉を口にし、小さく微笑んだ。
「面倒でしょう、付き合ってくれて、ありがとう」
「……別に、オレは」
なにもしていないから。
感情のこもらない声で答えながら、蔵馬は自分の内心がどこかパキリと凍りつくのを感じていた。
オレはオレのためだけにここにいて、心のどこかではあわよくば……なんて考えていたというのに、
君はそのオレがそばにいただけで救われたと、そう言うのか、。
表情を失い、黙り込んでしまった蔵馬を、は不安そうに見つめた。
「……蔵馬……気を悪くした?」
はまた、ごめんと謝った。
傷ついたあとで、気を遣うべきは君じゃないのに。
蔵馬はただ、言い表すなら自己嫌悪という言葉が近いのだろう、やりきれない思いを抱いて俯いた。
「……どうしてひとの感情は、こんなに複雑にできているんだろう」
は え、と聞き返した。
「気持ちなんてものは、いちどきにいくつも持てなくたっていいと思うのに。
……余計なものいっさいをうち払って、ただ好きなんだとだけ、思っていられればいいのに。そうしたら」
そうしたら、オレは卑怯だとか、自己嫌悪だとか、そんなことをなにも考えずに、
ただ打算もない、好きだというきれいな気持ちひとつを持って、君の前に立てるのに。
「……蔵馬」
は困惑した顔で彼を呼び、そのまま躊躇いがちに、なにも言えなくなってしまった。
困惑は蔵馬も同じだった。
そらしていた視線を、へ戻した。
はまた泣いていた。
けれど、これはきっと恋を失った痛みのために流している涙ではないのだ──
蔵馬は立ち上がり、つかつかと、に歩み寄った。
は後ずさることも、目をそらすことすらできずに、蔵馬のその手に捕まってしまった。
間近で視線が絡む。
吸い寄せられるように、はおののきすらも感じながら、けれど蔵馬のされるがままになり続けていた。
唇が震え、なにか言おうとしたのを聞くまいと、蔵馬はに口づけてそれを遮った。
が泣きながら、しかし抗わないことを知って、蔵馬はまた思考回路のループにとらわれていった。
せめて、逃げようとしてくれたら、、オレは自分を悪者にすることができるのに。
(君のやさしさは、ときどき、毒だ)
けれどもうどうでもいい。
酔わされても構わない。
「……あんな奴、早く忘れろ」
低く告げた蔵馬の言葉に、は目を見開き──またぽろりと、涙をこぼした。
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