enjoy −雨の日−
今日は雨が降っている。
ただでさえ憂鬱な気分がじっとり湿り気を含んで、もっと重たくなっていくようだった。
ため息まで沈んでいくように感じられて、なんだか救いがない気がしてくる。
今日だけちょっと、せめて気分だけでも変えてみよう。
そう思ってが足を運んだのは、普段滅多に行くことのない市立図書館だった。
まばらな人が立ち並ぶ本棚のあいだに見え隠れして、押し殺された息とひそひそした声がときどき聞こえてくる。
来なければよかったかな、と、は少なからず思った…古い本の匂いが首筋を撫でるよう。
重たい荷物を引きずって、プリーツスカートについた水滴を軽く払って。
見回すと、大きな机の並んでるスペースが目に留まる。
広い庭に面して明かり取りの窓が天井までのびている。
それでも今日は外は雨だし、何となく薄暗い感じがする。
それでも来たんだから、やるだけやらなくちゃとは思う。
六人くらいで囲む大きさの机がいくつも並んでいるが、そこにはほとんど人がいない。
たったひとり…窓際の席で音楽を聴きながら勉強している人がいる。
(あれ、盟王の制服だ…)
このあたりでも有数の進学校は、距離だけいえば決して近くはない。
こんなところまで勉強しに来てるのかな、さすが…と思わずにいられなかった。
まずは英語の辞書をと、たくさん辞書が並んでいる棚を目指す。
国語、漢和、英和、英英…英英?
肝心の和英辞書が見つからない。
(嘘ぉ…図書館でしょ?)
授業で配られた過去問のプリントには妙に英文に直せという問いが多くて、英語が苦手なには致命的だった。
…それでなくても試験が好きな人間なんていやしないだろう。
また重いため息が足元まで沈んでいく。
(困ったなぁ、でもどうしようもないし)
仕方なく違う教科をやろうかと諦めたとき、肩越しにすっと手が伸びてきて、の目の前の棚に和英辞書を置いた。
「あっ…」
振り向くと、さっきの盟王の制服の男子生徒が辞書を返しに来たところだった。
「……使う?」
ちょっと笑って、彼はそう聞いてきた。
がこくこくと頷いて見せると、彼はまだ手にしていた辞書を取り直して、はい、と渡してくれた。
「…ありがとう」
「どういたしまして。…受験勉強?」
「…そうです」
「もうすぐだね…頑張って」
そう言うと、また席へ戻っていく。
…息が止まるかと思った。
しばらくそこから動くことなどできずに、彼が渡してくれた辞書を眺めた。
荷物と辞書とを抱え直して机のほうへ戻ると、彼は今度はまた違う勉強をしているようだった。
ちょっと勇気を出して、は彼の座る窓際の席へ近づいてみた。
声をかける前にに気づいて、彼はふっと顔を上げる。
光が後ろ側から彼を照らして、薄暗く陰を落としている。
けれど、それがなんだか彼の男の子とは思えないような綺麗さを淡く引き立てているようにには見えた。
なにか言いたそうにしているを見ながら、彼はMDウォークマンのイヤホンを耳から外した。
「…向かいの席、座ってもいい?」
「どうぞ、空いてるよ」
お邪魔します、と控えめに言うと、彼の正面の席に座る。
(…ちょっと待って、私受験勉強しに来たのに)
集中できる? こんな浮わついた気持ちのままで。
そう考えるのを頭の奥に押しやって、は無意識に彼に話しかけていた。
「…あなたも、受験…?」
声をかけたあとで、きっと邪魔をしてる、と後悔したけれど。
彼はちっとも迷惑そうな顔をせず、にっこりしながら答えてくれる。
「いや、オレは就職組だから。これは学期末試験の勉強」
盟王高校に行ってて就職する人なんているんだと、は目を丸くした。
「どこを受けるの?」
今度は彼から聞いてくれた。
「え…と…四谷大学の英文…」
「ああ、あそこか。いい学校だよね」
「…でも、ちょっと迷ってるっていうか、その…」
口ごもるに、彼は優しく微笑んで。
話を聞いてくれる、という姿勢を見せてくれたことに安心して、はそれに甘えようとしていた。
「英語、苦手なんだけど…でも、将来は国際的なお仕事をしたくて。それで」
「なるほど。志が高いじゃない」
「そうかな…? なんか、身の程知らずな気がしてきて…」
「そんなことないよ…自分のやりたいことをちゃんと見据えてる人って、意外といないから」
羨ましいなと彼は言った。
とたんに頬が火照るのがわかる。
「…あなたは? 盟王に行けるだけの成績なのに、どうして大学行かないの…?」
彼は今度は少し困ったように笑った。
…聞いちゃいけないことだったのかなと、は俯いて口をつぐむ。
「オレは、これまでにやりたいことはやり尽くしてきたし…欲しいものはみんな手に入ってしまったので」
一度言葉を切った。
彼は何かを思いだしているような不思議な表情を浮かべた。
「今までにやったことのないことをやってみようかなと思って…その程度だよ。それに」
そこでまた言いよどんだ彼は、その先をちょっと言いづらそうな様子で。
「…いい成績がとれる人はみんな大学に…ってわけでは、ないと思うから」
先ほどの自分の言葉を思い返して、はハッとさせられた。
ごめんなさい、ととっさに頭を下げると、彼はかえって申し訳ないと言って慌てているようだった。
「…それは逆に、君もね。英語が苦手だから国際関係の仕事に就いちゃいけないってことではないし…
むしろ、すごいことだと思うな。苦手を克服して頑張ろうとしてるんだからね」
彼の言葉に、またの頬が赤くなる。
彼がに言ってくれることはなんだかまるで、魔法のようにの重荷を外していってくれるようだった。
もう吐息も重たく沈んではいかない。
「ああ、でもね、頑張りすぎるのはよくないよ…気持ちが乗らないときに無理してやっても、
頭には入らないでしょ?」
頑張りすぎないで、と言って彼はにっこり笑ってくれた。
これまでに周りはみんな頑張って、頑張って、頑張ろうね、とに言い続けてきた。
それに頑張るよ、頑張ろうね…と答え続けてきて、それが知らないうちににとっての重荷になってしまって。
そうして、本当に頑張ってる友達やクラスメイトを見ていて…
自分も同じ速さで走らなければと、焦って無理をしていた気がする。
(でも、いいんだ、頑張らなくても、みんなと同じじゃなくても、私は私…自分を自分なりに頑張ればいいんだ)
「…そうだね」
も今日初めて…むしろ、ひどく久しぶりに心から笑うことができた。
「そうだよ。ベストを尽くすことができたら、それでいいんだよ」
彼がそう言うのに、はうんうん、と頷いて。
そうしてやっと英単語が頭に入ってきそうな気分になって、手早く教科書とプリントを鞄から引っぱり出す。
「…じゃ、オレはもう行くよ。これ以上話し込んだら邪魔をしてしまうし」
「ううん、ありがとう! 気持ちが軽くなった…」
そう?
彼は立ち上がると、それならよかった、と言ってまたにっこりとに笑いかける。
「じゃあね」
彼は軽く手を振ると、本棚のあいだに去っていった。
その背中を見送りながら、名前を聞くこともできなかったなぁ…などとぼんやり思っていると。
慌てた足音が聞こえてきて、彼が小走りにのほうに戻ってくる。
「…どうしたの?」
忘れ物かと机を見回したが、なにも残っていない。
「いや、違うんだ」
彼がさっきの和英辞書を示すので、はそれを彼に手渡した。
忙しそうにぱらぱらとめくると、あるページから金属製の栞を見つけて引っぱり出す。
銀色の薄い板に鎖とチャームが付いているシンプルでスタイリッシュな栞。
「それ、忘れ物?」
妙に焦っている彼がなんだか可笑しくて、はちょっと笑ってしまった。
彼はふっと笑うと、その栞を開いたままの辞書の上に載せて、そのままに戻してきた。
「…?」
そのまま受け取ると。
「あげるよ」
「え? でも…」
「お守り」
そう言うと、彼はまたさっさと背を向けて行ってしまった。
「…………え?」
彼が行ってしまった方をぼんやりと眺めながら、は手元に残った栞の感触を確かめた。
つや消しの加工がされたさらさらした金属板の表面に、かちかちした段差を感じて目を落とす。
そこに、アルファベットの刻印があった。
「“Shuichi MINAMINO”…」
シュウイチ・ミナミノ。
何となく聞いたことのある名前だけれど…思い出せない。
ふと目をそらすと、辞書の一文にマーカーでラインが引いてあるのを見つける。
図書館の辞書のはずだけど、…彼が?
その単語の意味から、きっと彼の仕業に決まっていると思った。
その一文を眺めて、はふと緩む頬を隠すことができなかった。
「楽しむ−enjoy」
■お風呂でラジオ(ほぼ深夜枠)聞いててセンター試験間近と知りました。
受験生の皆さんを蔵馬と一緒に応援…のはずが…あまり夢じゃなくなりましたね…
反省。。
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