修羅様のなやみごと

魔界も今は平和と言って差し支えないだろうなと思う。
どうかすると彼女を連れてきてもいいかもなんてところまで
考えが飛んでしまうこともあるのだが、
オレの場合まず来る場所が癌陀羅であるということが不都合だ。
彼女にちょっかいを出したがる奴が多すぎる。
そうしてオレは今日も、
彼女を連れてくるのはまだまだ先の話だと固く誓ったわけだ。

「蔵馬。きいてるのか?」
真剣な顔で見上げられて、オレはああうんと曖昧に返事を返す。
黄泉の息子の修羅はなにやらオレに悩み相談とやらを
持ちかけているらしいがあまりまじめに聞いていなかった。
やってくれば必ずまとわりついてくる幼い妖怪は、
彼女に対しても遠慮なく根ほり葉ほり聞くことだろう。
聞かれたら困ることや、彼女が答えたら(主にオレが)困ることも
簡単に引き出せてしまえそうだし。
いいかい修羅、
君は君のパパがどれだけ厄介な人物なのかをまだ知らないんだ。
ただでさえ普通に厄介なのに、
その的がゴシップネタとなると恐ろしすぎて想像もしたくない。

「それは難しい問題だな…」
どうとでもとれる返事をすると、
修羅はそうなんだ、と言ってしゅんとした。
なんだろう、こんなにしょげ返るとは?
「修羅はどう思っているの? どうしたらいいと思ってる」
「…わかんないんだ」
「修羅次第で変わるんじゃないのか?」
「………」
黙り込んでしまった。
うまい切り込み方は出来なかったようだ、失敗。
さて、どう出ようか。
「だから僕、パパの代わりに蔵馬にやってもらおうかなって
 思ったんだ」
ああ、





…修羅。
今の発言はたぶんパパ的に痛かったと思うな。
なにしろオレが大打撃を受けた。
何が問題かわからないが、
黄泉にあとから嫉妬のあまりの嫌がらせを受けるのは嫌だ。
あいつは昔からなんとなく仕返しが陰湿なところがあるんだ。
「どうしてパパじゃダメなの? 修羅」
「だって…痛そうなんだ」
「痛そうって…」
「蔵馬なら大丈夫だよ!!」
太鼓判! とでも言いたげに、目をきらきらさせて修羅は言った。
ああ、足音がすぐそこに聞こえてきそうだよ。
御機嫌麗しゅう、閣下。
オレの気分は最悪です。
早く帰って彼女に会いたいんですが。
幸いなことにそれは、
オレが考える最悪の事態でしかないようだった、今のところ。

「ともかく、修羅は本当はパパにしてもらいたいんだろう。
 それなら迷うことはない。パパに相談はした?」
「してないけど、でも…」
相談したらパパはがっくりすると思うんだ。
修羅の言い様から察するに、それは本当に対処のしようのない
問題らしかった。
どうしようもなくて落胆する黄泉の姿が簡単に目に浮かぶ。
彼はそうしてしばらく会議をほっぽりだすだろう。
それはそれで歓迎なのだが。
…それにしても修羅。
誰かに口に出してそのことを告げているという時点で、
君のパパの耳にももう情報が入っているということを
忘れてはいけない。
パパはたぶんすでにがっくりしていると思う。

「…でもね、それでも修羅の本当の気持ちを、
 パパは聞きたいんだと思うよ。わかる?」
「…言えないよ、僕」
「修羅」
「だって、だって、」
修羅の目にぶわぁと唐突に涙が浮かんだ。

「肩車して欲しいからうしろのつのをどうにかしてなんて、
 僕とっても言えないよ…!」

数瞬ぽかんとさせられたあと、蔵馬は盛大に笑い出してしまった。
修羅は笑うなと赤くなって怒っているが、
なるほど、確かに、悩みどころかもしれない!
そして、黄泉は本当にがっくりと落胆しているだろうことが
やっぱり容易に想像できてしまって、
笑いはしばらくおさまりそうもなかった。

ああ、やっぱり、魔界はものすごく平和だよ。
いいみやげ話ができた。
ねぇ、今度、やっぱり連れてきてあげようか。
人間ではあり得ないような話がごろごろ転がっていて
面白いかもしれない。
ただ、どこにいても誰かが必ず聞いているという覚悟がいるから、
いつものようにベッタリとしてはいられないかも知れないけれど。


2005.10.30(SUN)

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高校教師×女子高生 #3

「せんせい!! おねがい!! 一生のお願いっ!!」
「却下」

何度目かわからない一生のお願いはすげなくやり過ごされた。
そんな、あっさり断らなくても。
学校の試験とはわけが違うのだから。

「私が大学落ちたらどうするの!? 可愛い生徒が!!
可愛い彼女が!!」
「永久就職先ならいつでもお望みのままに」

ついうっと言葉に詰まってしまう。
それはそれで、よいのかも。
思ったあとではっとしてぶんぶんと首を振る。
大学受験を間近に控え、
数日後には大学入試センター試験を受ける彼女は、
蔵馬が担任を受け持つ生徒にして秘密の恋人。
彼女に蔵馬はさっきからずいぶんしつこく言い寄られていた。

「試験会場の学校なんかね! からすがすごいんだから!!
 リスニングテストの時間くらいにわーっと集まって
 ぎゃーぎゃー鳴くんだから!!」
「リスニングね…
 一応断っておくと、オレの担当は英語じゃないんだ」
「知ってます!!」

ほとんど涙目に近い潤んだ瞳で見上げられると蔵馬も多少
気持ちが揺らぐが、彼のほうがそれより何枚も上手だ。
ふぅと悩ましげに息をつき、彼女を見据えてみた。
ほら見ろ、気まずそうな顔をするのは君のほうじゃないか。
一生に一度というわけでも落ちたら死ぬというわけでもない試験に、
それでもみんな必死に取り組んでいる。
生まれ持った才覚のおかげで学習関連にあまり苦労したことが
なかった蔵馬には覚えの遠い事柄だ。

「英語教えてって言ってるんじゃないもん。
 リスニングのコツ教えてとか言ってるんじゃないもん。
 わかんない問題があるから聞いただけだもん。
 どうして?」
「なにが? 唐突な問いだな」
「生徒が先生に質問しただけなのになんで意地悪するの?
 私蔵馬みたいに頭よくないもん。
 勉強しないと大学行けないんだもん…」

もんもん繰り返されて蔵馬は笑い出したい衝動をこらえていたのだが、
恋人はそれなりに真剣なわけだから笑ったら怒られる。
怒ったところも可愛くて好きだけどと、
そう言ったらそれはそれで怒られるだろうが。

「…依怙贔屓しそうになるんだよね」
「は?」
「わかってるよ。先生が生徒に難しい問題を手ほどきする。
 当然の光景だね」
「そうだよ。蔵馬はいっつもはぐらかすけど」
「他の生徒と君は違うから。特別扱いをしそうになる。
 先生の立場を忘れてね」

その一言で火がついたように赤くなる恋人を笑う余裕が自分にあるとは、
そのときの蔵馬にはあまり感じられなかった。
彼女もいつまでもからかっていられる子どもじゃない。
大学生にもなるかもしれないし、
とりあえず三月で自分の生徒ではなくなる。
恋を秘密にする必要もやがてはなくなるだろう。

「ひとつ、勉強のコツらしきものを教えるとすると」
「…うん」
「気が向かないときはやらない方がいい」
「…無理! なんでもかんでもやらなきゃ受かんないもん!」
「量をこなすだけでは頭に入ったことになってないってこと」

いいかい、と蔵馬は姿勢を正すと彼女に向き直った。
すでに最初にわからなかったはずの問題は忘れられている。

「機械的にノルマをこなすことが大事なわけじゃない。
 流れ作業でやったことがどうやって記憶に残るというの?
 やり方をうまく選べれば短い時間で多くが学べる上に
 遊ぶ時間や休憩をそれなりにとっても困らない」
「そんなの蔵馬だけなの! 私一般人だから!!」
「君がやって楽しい勉強法があるんじゃないの? たとえば」
「勉強はみんな楽しくなんかないもん!」
「へぇ。少しは楽しめそうな方法を提案しようと思ったのに」

やる気がないなら意味ないなと、蔵馬は黙り込んでみた。
彼女は意地を張って怒った顔を作っているが、
明らかにうずうずしている。
こういうわかりやすいところも可愛くて好きだなぁと、
蔵馬は他人事のように思った。

「…教えてよ。蔵馬」
「…どうしようかな…」
「意地悪!」
「わかってるじゃない」
「………!」
「そうだなぁ…せっかく名前で呼ぶことに抵抗しないでくれるように
 なったわけだから…次のステップに行きましょうか」

嫌な予感、と、座ったまま距離を取ろうとする彼女。
パターンもわかるようになってきているらしい。

「前にも言ったっけ? 『キスをくれたら』。いいよ、教えてあげても」
「や…やっぱり! やだぁ…!」
「ふーん。そんなあっさり断ってくれちゃうんだ。傷ついたな」
「蔵馬だってさっきあっさり私のお願い断ったくせに!」
「一生のお願いが多すぎるんだよ。身がもたないよ」
「う…だって…」
「“I finished proposing. Next your turn”. はい。」
「はいじゃないの…」

もじもじとして俯いてしまった彼女に、
どうも今日はここからが持久戦になりそうだと蔵馬は見当をつけた。

“提案はし終えたよ。次は君の番”

オレの気持ちをおさめてくれたら、いい先生役に徹してあげてもいい。
キスひとつで懇切丁寧なご指導ご鞭撻となるならお安い御用と
思ってくれる君ならいいのだけど。
こんなことでちいさくなってしまう恋人が愛おしくて仕方ない。
オレの番は終わったからただ待つよ、君が行動するまでは。
ずっと秘密にして立場も気にしなければならない、
どうも思うにまかせない恋だった気がするけれど、
思えばあと数か月しか君の先生ではいられない──
蔵馬は少し感慨深くそう思った。
だったら、たまに先生らしいことをしてやってもいいかもしれない。
勉強を見てやるとか、当たり前そうなことを。

キスひとつでしばらく、恋人の立場はおあずけ。
彼女が望むなら問題の解説もリスニングのコツも教えてやろうかと、
蔵馬はそんなふうに思いを巡らせる。
目の前にはまだ決心が付かないらしい恋人。
いっそのこと本当に永久就職してくれてもいいんだけどと思いつつ、
それを本気で言ってもやっぱり怒られるだろうからと
言葉を飲み込んでみる蔵馬だった。


2006.01.19(THU)
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昼寝の火曜日。

(寝てる)
(うーん…)
(おーい)
(蔵馬ー)
(帰っちゃうよー?)

 …………

(彼女を放って寝る? 普通)
(14日よ14日。じゅう・よっ・か!!)
(なんの日か忘れたとか言わないよねちょっと)
(バイオリズム狂ってて体内時計が魔界暦になってるとか)
(いや ないないないない)
(ねー。退屈だよーーー)
(構ってぇぇぇぇぇ)

 …………

(うーわーあり得ないよちょっと!)
(リラックスのしるしvとか冗談じゃないよ)
(こらっ! 起きろっ!)
(おぉぉぉぉい!)

 …………

(桑原君じゃないけどらくがきしちゃうよ)
(髪の毛引っぱってみたり…えいえい)
(ほっぺ突っつくとか。えいえい)

 …………

(…ねー。ねーねー)
(…蔵馬ぁー)
(別にお返しが欲しいわけじゃないんだけどさ)
(そうじゃないんだけど、)
(ちょっとくらい気付いてくれたっていいじゃない)
(なにかして欲しいわけじゃないんだけど、)
(うん? じゃあ私はなんで蔵馬に構って欲しいの?)
(いや。退屈だし。)
(ねー。)
(一人にしておかないでよ)
(もう、)
(ホントに帰っちゃうよ。)

「……………はっ」
「!」
蔵馬は急に目を覚まして、慌てて私の腕を掴んだ。
「………あれ」
「よく寝てたね」
「…帰っちゃうのかと思った」
「帰ろうかと思った」
「…そう」
蔵馬は寝起きのうるうるした目をぱっちり開いて私を見ている。
なんか、そんなに見つめられると、なんていうか、こう…
こっちも目をそらせなくなるじゃない。
どうしよう、勝負みたいになってるん、です、けど、
「…手」
「え?」
「いつまで掴んでるつもり?」
「あ、ああ、…」
言われて初めて気がついたみたい。
蔵馬はぱっと手を離した。
なに、なんかぎこちなくない?
素直に首を傾げたら、彼はちょっと困った目を向けてきた。
「なんか…」
黙って言葉を待ってみる。
「格好悪いな…大事なところを忘れてしまったような」
「………」
「チョコレートをありがとうって言おうと思ったんだけど」
「うん」
「お礼に何をしていいのかよくわからなくて」
「いいよ、なんにも」
「うん…」
納得いかなさそうな顔で、蔵馬は頷いた。
さぁ、やっと起きてくれたんだから、特別なことをしなくちゃ。
クッションに座り直すあいだ、蔵馬に背を向ける格好になる。
やることは普通だけど、蔵馬と一緒だとちょっと特別になる。
彼氏と彼女になってからは本当に、
過ごす時間の全部が特別、特別、特別、そういう感じ。
「…二番煎じで申し訳ないんだけど」
後ろから蔵馬がそう言ったので、振り向いた。
出されたお茶の話かと思った。
蔵馬は居住まいを正して、私の隣にちゃんと座り直すと、
握っていた手のひらをゆっくりと開いて見せた。
「花だけね。ちょっと早咲きってことで」
言葉の通り、枝も葉もない桜の花の部分だけがぽろぽろ
その手から溢れては私の膝の上に落ちてきた。
蔵馬は自分の手の上を凝視しながら、気まずそうな声で呟いた。
「…使い古した手かな。オレの場合はもう何百年ものだし」
女性には花を。
「…別に、いいけど。お花もらう機会ってあんまりないから…」
照れる、と言ったら蔵馬は機嫌を直したようだった。
去年は部屋の床に散らばった、抱えきれないほどの花束。
今年は、街でいちばんに咲いた桜の花。
(でも、ねえ、蔵馬)
「…お花の次は?」
蔵馬は一瞬きょとんとして、
私の言葉の意味を悟るとちょっと赤くなった。
やだ、可愛い、蔵馬ったら。
まさかあなたが照れるようなところ?

では、お言葉に甘えて。

チョコレートのお返しは手のひらいっぱいの春と、
やさしいちいさなキスひとつ。


2006.03.14(TUE)

























































花を追うひと

植物の支配者だからこそだが、
蔵馬には年に一度会うのを楽しみにしている女性がいる。
それはそれは美しいひとなのだ。
例年に比べ、今年は少々訪れが遅い。
風が彼女の行く道を邪魔しているのかもしれない。
風となると、さすがに自分の司るところではないので…
蔵馬は珍しくもただ待つ身と徹し続けているのであった。

会いに行くのは構わない。
あたたかい土地へ下ればどこかには彼女がいる。
探すのもそれほどの労力じゃないはずだ。
ただ、それはなんとなく…口惜しい、と言おうか。
いても立ってもいられなかったと、
彼女は口元に薄く笑みを浮かべることだろう。
あのあでやかさ、視線も凍るような美しさ。
それはいい。
けれどまるで子ども扱いのようなのだ。
まぁ微笑ましいこと…と言われてしまう、それはなんとなく嫌だった。
一度くらいは頼られ甘えられてみたい。
些細な夢を語るのも笑われそうでできなかった。

五月の十日過ぎ、彼女はやっとやってきた。
春めいた空気を蹴って歩く、足取りの軽さを懸命に抑えつつ、
桜の花が咲き誇る下へ立ち止まる。

  ──まぁ、退屈そうなお顔

懐かしい声がした。
「退屈ですって? とんでもない」

  ──そうかしら、なんだか、待ちくたびれたような

セリフのあとに続くクスクスという笑い声に蔵馬は苦い顔をした。
彼女の行く手を阻み続けただろう風が、
今はそよそよと桜の枝葉を揺らした。
またくすぐったそうな笑い声が響く。
木々のざわめきに混じり、
普通の人間には聞こえないようなそのこだま。
蔵馬は息をついて、観念したというように花を仰いだ。
「…そうですよ、こんなに待たせるから。あなたというひとは」

  ──ごめんなさいね、それを知っていたから

知っていたから、と意味ありげに声は途切れた。
「知っていたから? なんですか、嫌な予感がするな」

  ──あなたが逢いたがってくださってるのは存じておりますのよ。
    …だから遠回りをしてみたの──

「…焦らされましたよ。嫌だな、あなたの思惑通りなんでしょう」
その通り、と答えるように、また笑い声がさざめいた。
蔵馬はしばらくばつの悪そうな顔をしていたが、
やがて苦笑気味にふっと表情をやわらげた。

「ねぇ、オレは今もあなたに焦らされているんですよ。
 いい加減姿を見せてくれませんか?」

2006.04.12(WED)

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政略結婚の王様とお姫様 #3

見舞いの名目で妻に花を届けるため、
蔵馬は自慢の温室をほぼ丸裸と呼べる状態にまで導いてしまった。
騒動にもやっと片が付き、彼女自身も健康を取り戻して、
一応は夫婦であるというのに最初から恋をやり直すような
スローペースでお互いを知ることから始めている。
それでもやっと、挨拶にキスを交わすことができる程度の仲だ。
これでも進歩したほうだと言い訳し、
蔵馬は次第にはやる感情を抑えるのに必死になっていた。
彼自身にも制御が難しいその獣も、
可愛い妻のちょっとした表情や仕草、たった一言で
大人しく手懐けられてしまうこともしばしばだったが。

さてある日、目覚めて隣に眠る妻を見やると、
赤い顔をしてぜいぜいと息をしているのに気がついた。
はっとして額に手をあててみると、明らかに熱に喘いでいるとわかる。
なにがあったのかと唐突に慌て出す蔵馬の内心だが、
とりあえず医師に診てもらわなければとまた瞬時に冷静さを取り戻す。
そうして下された診断は、何のことはない、
季節柄風邪を引いたのだろうという単純なものだった。
ただ熱を出しているのがどうかすると国の未来をも担う王妃である
というだけで、事態は一変してしまう。
侍女たちは涙を浮かべて献身的に働き回り祈りを捧げる。
噂には尾ひれが付いて回り、
いつの間にか「はやり病に倒れた王妃の御容態は」と
恐ろしい問い合わせまで届く始末。
それと一緒に薬や滋養のある食物などが届けられ、
目覚めた王妃本人が面食らって言葉を失ってしまうほどだ。
しかし国にとっての何よりの打撃は、切れ者と名高い王が
腑抜けたように集中力を失って仕事がはかどらないということだろう。
夜を迎え、軽い熱もすっかり引いた妻の身体を心配そうに抱きしめる
蔵馬の様子に、彼女はおかしそうにくすくすと笑いをもらした。
これでも夫は真剣なのだとわかっているので、
笑うのも気の毒なような気もしたが。

翌朝、目覚めた王妃の隣に蔵馬の気配はなかった。
ベッドの中に彼の体温が残っていないところから、
かなり早くに部屋を出てしまったのだろうと思って
少々さびしい思いを抱く。
それが、朝食頃になって誤解とわかった。
ベッドで甘く味付けた薬湯を飲んでいた彼女のもとに
蔵馬が戻ってきた…その手には今度はどこから調達してきたのか、
花がさげられている。

「まだ温室にお花が残ってました?」
「…かろうじてね」

おかしそうに聞いてくる妻に、蔵馬はばつが悪そうな顔で答える。
からかうように、彼女はさらに問いかけた。

「またお見舞いですか? もう熱は下がりましたのに」

蔵馬はますます居心地が悪そうに、
照れが高じて怒ったような顔になりながらぶっきらぼうに呟いた。

「……贈り物だよ。それでいいだろ」

途端、おかしくてずっと笑いをこらえていた彼女は呆気にとられて
目を見張った。
蔵馬ももうどうしようもなくなって、開き直るとずんずんと勢いよく
ベッドまで歩み寄ってきて、その端に乱暴に腰掛けた。

「…幽助が言っていたんだよ。
 そろそろプレゼントだって言って贈ってもいいんじゃないかって」

花束はぽんと無造作に、彼女の膝あたりへ放られた。
妻の目が無感動にその花を見つめているのを見て、
蔵馬はやり方を間違えたらしいとちょっと困惑してため息をついた。

「…きっかけがないとプレゼントもできないらしい」

臆病ですみませんねと投げやりに言ってみるが、
また彼女が輝くような笑みを浮かべたのを見て言葉じりは抑揚なく
吐息に混じってしまった。
彼女は顔を上げ、感謝のこもった目で彼を見つめて微笑んだ。

「ありがとう。
 私、まともに御礼を申し上げたことがきっとなかったわ」
「…そうだった? いいよそんなこと…」

とりあえずこの場のいかにも恥ずかしい空気を何とかしたくて、
蔵馬は妻から顔を背けるとぱっぱと何か追い払うように手を振った。
その手が横から押さえつけられ動きを止められて、
何事かと妻を振り返る前に、蔵馬はその頬に優しいキスを受けていた。

「は……」
「ありがとう、蔵馬。大好き」

慌てて振り返ると、妻は何事もなかったかのように
羽根枕に寄りかかって薬湯のカップをからにしようと努力している。
しばらくしてふいに、カップを包む指先を見つめていた彼女の目が
悪戯っぽく蔵馬に向けられた。
視線が絡んだ途端頬にかぁっと熱がのぼってくるのを感じて、
蔵馬はがくんと俯き、力無く呟いた。

「…ちょっと、待って…」
「あら、意外と照れ屋さん」
「………」
「自分はいつももーっと私を照れさせるようなことをするくせに。
 温室を丸裸にするくらいお花を贈ってくれるくせに。
 耳を塞ぎたくなるくらい甘ぁいことを言ってキスをするくせに」
「…何の嫌がらせ?」
「嫌がらせなんて! ひどい言い方」

蔵馬が行き場を失ったらしいことを悟ると、
彼女は嬉しそうに声を立てて笑った。

「だって、私その分をあなたにお返しできていないんだもの。
 でもほっぺにキスと『大好き』って言うだけで
 埋め合わせできちゃうなんて思ってなかったわ」
「オレにも予想外だったよ…意外と意地が悪いな、君」
「いやだ、意地が悪いなんて。あなただって相当意地悪よ」
「覚えがないよ」

いいえ、と彼女は言うと、
なぜかそのまま赤くなって言葉を切ってしまった。

「…誰も何も言ってないよ。何考えてるの?」
「そういうところが意地悪よ」

しばらくお互い黙り込んでの睨み合いが続き、
先に口を開いたのは彼女のほうだった。

「だって。
 …だって、私もどうしたいのかよくわからないの、つまり…」
「つまり?」
「あの…おねだりしないと、何もしてくれないんだもの」
「……はい?」

彼女はますます赤い顔で、目をそらすとちいさく呟いた。
“あんまり優しすぎても、焦れちゃうわ”
蔵馬は目を丸くして、しばらく呆けたあとにやっとのことで口を開く。

「…あ、そう…」
「わからなくなっちゃった…忘れてくださってもいいの」
「いや、それはもったいない気が…
 …いいんだ? 遠慮してたよ」
「そ、そう? やっぱり」

あまりにあっけなく枷がひとつ外れたらしいことに蔵馬は
逆に落ち着きを取り戻してしまったのだが、
筋金入りの深窓の令嬢である妻が、
こんな知識を植え付けられているとは思えない。
見聞きして知ってしまったか、それともただ単に…

「…もっとそばに行ってもいいってこと?」

具体的な手段などわからずにただ単にそう思ったのだとしたら、
彼女らしくて頷ける。
そう思って聞いてみると、案の定彼女は控えめに頷いた。
そして自分の言動に改めて照れてしまったようで、
誤魔化すように早口でまくし立てる。

「あ、でも、まだ風邪が治りたてだからいけないわ、
 うつしてしまったら大変…お仕事もはかどらなくなるでしょうし、
 みんな困ってしまうし、たくさんの人が心配するし…」
「…オレにうつして治したら?
 寝込むほどヤワじゃないからオレは平気だよ」
「そんな」

彼女は困ったように口をとがらせる。
彼女のおねだりとやらで遠慮が要らないことがわかっても、
こんなちいさな仕草で何もかも遠のいてしまうことがある。
ヨコシマなものが全部どこかに行ってしまったようで、
蔵馬はかなり平静に妻をじっと見つめた。
進展するまでにやたらと時間のかかる恋人だ。
まだ事実上夫婦関係とは言い難い。
それも遠からず返上することになりそうだが…
こみ上げてくる幸福感に蔵馬は笑みを浮かべる。
これでは妻が回復しても、仕事に力は入らない。

2006.05.05(FRY)

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ははのひさぷらいず

「秀一? 14日は予定が入ってる?」
「14? …日曜?」

それが世間で言う“母の日”であることは事前に心得済みだった。
普段表立って言うことのない感謝の言葉を口にする日。
行事というかたちで世界中がお膳立てしてくれないと、
人間なかなか素直になれないらしい。
ま、普段言わないからこそ思い入れもある一日になるだろう。
あなたのための日だからと、そこは口に出しては言わないが、
空いているよとオレは答えた。

「そう? じゃあ、久しぶりにお出かけしましょう? ふたりで」
「ふたりで?」
「嫌? そろそろ親について歩く年頃でもないのかしら…」
「や、そういうことじゃないけど。珍しいね?」

義父さんと義弟が一緒に暮らすようになり、今は家族四人。
血の繋がりもない人同士が家族としてひとつ屋根の下で暮らせるか、
母さんは実はそれをひどく気にかけていて、家族四人一緒になにかを…
ということを大事にしていたのだ。
それが、義父さんと義弟抜きとは不意打ちだ。

「いいよ、たまには付き合うよ。久しぶりだね」
「そうね。楽しみだわ、秀一とデートなんて」
「母の日だからね、なにかお楽しみを用意しなくちゃいけないな」
「あら、そういうつもりで言ったんじゃないのよ。でも」

わかりやすくうきうきとした様子で、
母さんはカレンダーの第二日曜日にマルをつけた。
母さんが最後にでも、の続きを意味ありげに途切れさせたことが、
なんとなくオレの内心に引っかかりを残した。

14日、朝に強めの雨が降って外出はお流れかもしれないと思ったのが、
少し待つと嘘のようにからりと晴れて遠慮のない日差しが
濡れた道路をあっという間に乾かした。
外出の前に義弟がオレの部屋へこっそり忍び込んできて、
秀兄、夜の七時くらいまで時間稼いで、夕飯食わないで帰ってきてよ、
オレと父さんでカレーを作るから、と計画をうち明けてくれた。
父親の再婚で久しぶりに母の日ができるのが彼にとっては
嬉しいことだったらしい。
去年に引き続いて計画を練って、母さんをもてなしてくれるようだ。
わかった、うまくやるよと約束をして、オレと母さんとは家を出た。

どこか行きたいところがあるのと聞いたら、別にないのよと言われた。
ただふたりでのんびりしてみたかったのだろうか?
晴れた日曜日、さすがに街は混んでいた。
親子連れ、恋人同士、友人の集まり、いろいろ。
人で賑わう中に知った顔はなく、誰が見ているはずもないのに
母親と並んで歩く自分に視線が集まっているような錯覚を覚える。
ああ、これが、この年頃の照れというやつ…
他人事のようにそう考える。
頭の中じゃあ抵抗感はないのだけれど。
中身が妖怪として独立した思考や人格をかつて持っていたとしても、
この身体はやっぱり隣を歩く母親からもらったもので、
彼女の息子として反応する部分が新しく自分にあるのだろうと思った。
確かに、それはそれで悪くない。
新しい自分の発見だ。
人間も妖怪も、同じばかりじゃつまらない。

まるで恋人同士のように…と思ったのは、彼女とデートをするとき
のように母さんを連れ回してしまったせいだろうか。
カフェで話をしたり、あちこちを見て回ったり、
本屋でついつい時間を食って早く行きましょと袖を引っぱられたり、
日常のような非日常のような奇妙な感覚が交錯した数時間。
話す内容に家と外とで違いなどないような気がするが、
それでも新鮮な気持ちがするしお互いに驚くほど舌が回る。
それでいて話題の種が尽きない。不思議だ。

ほとんどそうやって時間ばかり過ぎていって、
特に買い物をしたりするようなこともなく、
義弟との約束の時間にちょうど良い暮れを迎えた。
適当に理由をつけて帰宅の方向へ意識を促していく。
義父と義弟は企みを内緒にしたいのだろうから、
家にサプライズがあるらしいことを母さんに悟らせてはいけない。
余計なことを喋りすぎないように、家のほうへ向かいつつ
オレは一言一句に注意を払って会話を交わしていた。

「あ、そうだわ、忘れ物! ちょっと寄り道していいかしら」
「いいよ、どこ? 戻る?」
「帰り道の途中だからいいのよ。私のお友達がいるお店でね」
「へぇ、本当」

他愛ない会話をまた交わしながら、
今度はオレが母さんの導く方へとついていく…見覚えのある風景、
歩き慣れた道…いろいろな意味で…
母さん、ちょっと、まさか?

「ここなの」

母さんが示したのは、母の日の暮れを迎え忙しさのピークが
続いているらしい花屋の店先。

「……誰が友達だって?」
「あら、だって私本当に仲良しなのよ?
 去年遊びにいらしたあと、お買い物の途中で偶然お会いしてね、
 それからうちのお花はここでいただくようにしているんだもの」

実は携帯電話の番号もメールアドレスも知ってるのと
母さんは白状した…嘘でしょ? いくらなんでも。
じゃあなにか、オレの知らないところで、
母親と彼女とが電話をしたりメールをしたりしていたわけ?
…いったい何の話題で?
そこに思い至って背筋に悪寒が走る。
うわ。母さんのこの目は嘘は言っていない。

「あ! いらっしゃーい!」

帰宅の客を見送って外に出てきた彼女がオレたちを見つけた。

「志保利さん、御無沙汰してます」
「あらあらこちらこそ。お忙しいのにごめんなさいね」

お互いにぺこぺこと頭を下げあうふたりを見ていて、
オレは立ちつくすより他にない。
彼女はやっとオレに気付いたようにこっちを見て口を開いた。

「…秀一、なにぼーっとしてるの? 今年はお花買わないの?」
「え、ああ…」

この日オレと母さんが彼女のバイト先の花屋に顔を出すというのは
定められたシナリオだったに違いない。
彼女は驚いていないし、
悪戯っぽい視線を交わす女性ふたりを見れば一目瞭然だ。
携帯電話の番号もアドレスも共有する友達なんだから。
つまり、サプライズを用意されていたのはオレのほうというわけ…
見事にはめられてしまった。
……あまり悔しくはないが。

「ほらほら、お花選んで! つぼみばっかりになっちゃうよ」

客は訪れ開いている花を選んでいくので、
閉店間際にはつぼみばかりが店先に並んでしまうのだそうだ。
よく見れば定番の赤いカーネーションは明らかに量が減っているし、
確かにつぼみ率が高い気がする。
店のスタッフたちはもうオレの顔をすっかり覚えていて…
それとは別に母さんの顔も覚えていたらしく…
にやにやしながらこちらを見ている。
薄くやわらかいピンク色の花を選ぶと、
彼女がはりきって花束を作り始める。
去年は苦手がっていたらしいが、あのあと相当練習したらしい。
それもこの日のためだとか言っていたような覚えがある。
あとで払うからと彼女は上役らしいスタッフに断りを入れ、
頼んでいないカーネーションを何本か花束に混ぜた。

「志保利さん、これは私からね」
「あら、いいの? 去年もくださったわね、ありがとう」
「いいえ、だって今日は子どもたちがありがとうを言う日ですよ」

ね、と視線で問いかけられ、オレはしぶしぶ頷いた。
いや、もちろんわかっている、母の日の持つ意味も知っているし
感謝の気持ちも嘘じゃない、もちろんもちろん。
でもこの状況はなんだ?
母さんも彼女も楽しそうだがオレひとりなんだか居たたまれない。
盛大にリボンをかけ終えて、
一仕事終えた彼女はレジのカウンタを回って出てくると、
母さんに花束を贈呈した。

「はい、おかあさま、いつもありがとうございます」
「あらあら、いいえ、どういたしまして」

ああ、待ってくれ…オレにどうしろと言うんだ、これ。
止めどない冷や汗を背に感じて立ちつくしていると、
彼女はオレに明確な指示を与えてくれた。

「はい、秀ちゃんは、お勘定」
「……はい」

レジの前で代金を払いながら、オレはつくづく思った。
オレを押さえ込める女性は
魔界霊界人間界広しといえどこのふたりだけだ。
そしてこのふたりがタッグを組んだらかなわない。
従順になっておくのがいちばんいいらしいと悟った。

「お母さんを大事にね、秀一」
「君もね。たまには実家に帰ったら?」
「あら、一人暮らしなの?」

母さんは今知ったようにそう聞いた。
彼女が頷くと、じゃあ今日は久々にうちにいらっしゃいと誘う。

「お夕食を御一緒しましょ? 腕を振るうわ」
「あ、母さん、今日はカレー…」

言いかけてはっとした、
しかしさすがのオレも母さんの耳を誤魔化すことは出来ず。
その夜オレは、母さんと彼女に挟まれて帰路につくハメになり、
帰宅してのち義父と義弟に恨み言を言われることになる…

2006.05.14(SUN)

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