お嫁さんバトン


朝、起きてくるなり彼は少し厳しそうな顔をして、テーブルの席に着いた。

砂糖もミルクも入れないことは承知済みで、少し濃いめにいれたコーヒーを差し出す。

これくらいはできなくてはね、お嫁さんとしては。

はそう思って朝食の卵に取りかかるのだが、彼はなんだか不機嫌そうだ。

「…秀一さん。どうしたの?」

彼はコーヒーに口を付けているところだった。

ひと口含んで、さて、と呟く。

。座りなさい」

「え…」

何か機嫌を損ねるようなことをしただろうかとは思うが、なにも…思い当たらない。

たとえば、昨夜の彼の意地悪に、彼の思惑通りに泣いて媚びてばかりはいなかったこととか?

そんなことを、今明るくなってから八つ当たられても…子供じみているし。

はぐるぐる思案しながら、それでも彼の言うとおりに向かいの椅子に座った。

なんとなく居心地が悪いのは、彼の視線に真正面から射竦められているせいだろう。

「…君は覚えている?」

「なにを? ですか?」

彼はふぅとため息をついた。

どんな小さなしぐさすらが、どうしてこうも整って見える人なのか。

「君はオレのお嫁さんだね? 

「ええ、そう、…です」

なんとなく不穏なものをその声色に聞き取った。

絶対なにか企んでる、とは思う。

知らないうちにハメるのが、彼の得意とするところ。

「君はこの間、オレをソファに押し倒してフェチバトンとやらを実行しようとしたね」

「あ、あれは、結局うやむやに…!」

「今度はオレと君は夫と妻になっていて、嫁バトンというのが来ているんだ。

 というか、回してもらったわけでなくて、奪ってきたらしいのだけど」

嫌な予感、的中!

彼は今日初めて、にっこりと笑って見せた。

「逃げちゃダメだよ…可愛いお嫁さんの回答をぜひ聞かなくちゃ、ね、」

不機嫌は裏の顔だ。

本音がどっちにあったかは聞くまでもない。

テーブルの上、の手はしっかり旦那様に捕まえられてしまった。

お互いの左の薬指に、同じデザインのシンプルな指輪がはまっている。

「では質問を。『あなたの旦那様を教えてください』?」

「え、えー…待って…」

「まだ躊躇するところじゃないよ、序の口…いやだな、この先の回答が思いやられるよ」

からかい口調はいかにも楽しんでいますといったよう。

捕まえられた手の甲を指先でなぞられる。

指先ひとつがなぜこんなに艶めかしいのか。

「く、蔵馬さん?」

「それが答え? どうして疑問系なの」

「う…く、蔵馬さんです。人間界では、南野秀一さんです」

「そう。なんて呼んでるの?」

「もぉ! そんなの質問にないもん!!」

「いいじゃない。君だって前回、質問で異性を押し倒して答えてねなんて書いてないのにやったじゃないか」

「屁理屈!」

「なんとでも。さぁ、?」

「しゅ…しゅういちさん、です! いいでしょ、もう!」

「そんなに照れることないのにね、どうしたのかな」

「意地悪!!」

「さて、次の質問にいこうか」

の叫びはさらりと無視された。

「『結婚して何年目になりますか?』」

「…えー、と…」

?」

「う、待って、一年二か月ちょっとです」

「数えたね? 計算しないとわからないんだね?」

「いいじゃない、結婚記念日は忘れなかったもの! ちゃんとお祭りしたもん」

「いけないよ、…オレはいついかなるときでも、君に覚えていて欲しいのに」

「そんなこと言われたって…い、いつも考えてはいるもん、秀一さんのことばっかり…」

彼はまた微笑んで一拍おいた。

「うん。その言葉が聞きたかったんだ、本当は」

は唖然とする。

「オレだって数えないと出てこないよ、咄嗟にはね。からかい甲斐のあるお嫁さんだよね」

「…もぉっ! 一年以上も結婚生活我慢できた私が偉い気がしてきた!!」

「嘘つき。一年中愛してたくせに」

もうどう反論していいかわからず、は言葉にならない唸り声をあげた。

楽しそうに目を細めて、彼は『どんな風に呼ばれていますか?』と、次の質問を囁いた。

「呼び捨て!」

「おや、投げやりな。もっと具体的に」

「呼び捨ては呼び捨てだもん!」

「可愛くない言い方をする。ふてくされちゃって。ねぇ、さん、懐かしいね」

次の手は旧姓と知るや、の身になにやらぞわぞわしたものが這い上がってきた。

彼の策となれば、もう手の届く範囲すべてに及ぶ。

あるネタは全部使って攻めてくるのだろう、憎たらしいったらないけれど、

一年中愛してたくせに…というその言葉も彼の自惚れじゃないから、には抵抗ができない。

「出会って間もない頃はさんって呼んでいたよね。君は南野君とオレを呼んだ。

 考えてみて御覧、今君はなんて名前なの? かかってきた電話になんと言って応答するの?

 ねぇ、お嫁さん」

「…み、………」

「み??」

「『南野です』…」

「それから? フルネームは?」

「南野です! 普通に質問してください、もう!!」

「あはは、わかったわかった。普通に質問してくれたらちゃんと答えてくれるんだね?

 次の質問がいちばん期待度が高いんだけど、オレとしては」

見事に揚げ足を取られては黙り込んでしまった。

「じゃあ、答えてもらいましょう、『プロポーズの言葉は?』」

「ちょっと…なんて質問を!」

「忘れたなんて言わないよね?」

「忘れるわけないです! 嬉しかったもの…! でも!!」

「再現してあげよっか? よければビデオでも回して録画してくれても構わないよ?

 プロポーズ記念日ビデオなんて言って永久保存版にしてね」

どこから拾ったネタなのだか、彼は愉快そうにくすくすと笑っている。

普段ならその姿にもうっとりしてしまうだが、今は鬼か悪魔に見える気がする。

「う…
うだうだ前置きいっぱいされたあとで『けっこんしよう』って言われました。

「うだうだって。何それ」

「だってぇ!!」

「ちょっと気分害しちゃったな…なに? そのうだうだの部分は? めんどくさくて覚えてない?」

そこにこそ気持ちがこもっていたのにと言って彼は唐突に立ち上がった。

思わずびくりと反応してしまうだ。

怒られる、と思った、が、彼はすたすたと歩いてテーブルに回り込むとの後ろに立ち、

まだ椅子に座ったままのその身体をうしろから抱きしめた。

それだけで身体の芯がすぅっと冷えた気がしたが、指先が頬の線を撫で、

耳元に少し低いハスキーな声とその吐息を感じたときは本気でしびれたかと思わされた。

「…オレがを愛していることに嘘はないし、一番大切な女性だと思っているよ、

 だけど、オレの世界はひとつきりではないから、君をいちばん優先にすることはきっとできない。

 できないけれど、精一杯大事に守って、ずっと愛していく。

 君がいちばんじゃないと言えてしまうオレを、がそれでも愛して、許してくれるのなら、」

結婚しよう。

と言ったあとで、本当は「結婚してください」と彼は言い直したのだった。

少し決まりが悪そうに、照れたように、焦ったように…プロポーズのつもりが傷つけてしまっていたらと、

そんな心配をありありとその表情に、視線に浮かべて。

彼らしくない感情的な佇まいと、精一杯の気持ちをどうにか聞かせられるよう必死で語った彼に、

はただただ感動して、このうえない愛情を感じて涙したというのに、

彼は恋人の涙に大いに焦って困って、恐ろしい時間をかけてなだめようとしてくれたのだった。

必死のさま、というのが本当に彼にしては珍しかったから、は涙を止められないまま

おかしくなってつい笑ってしまったというところまで、鮮明に覚えている。

笑うところじゃないと彼は口だけは拗ねたように言ったけれど、

その表情がやっとのことで安心してほっとすることができたと語っていたのも覚えている。

一年と少しぶりに聞いたその言葉は、記憶と一字一句違うところなく告げられた。

少し覚えと違うとすれば、彼の声音に不安がなかったことかもしれない。

「断られるかもしれないと思ったんだよ。言ってることが身勝手すぎる自覚はあったし」

今度は少し照れた響きがあった。

「でも、どっちも大事だから。

 人間界で人間として生活している時間は、のことをできるだけ優先するようにしてるよ」

「わかってます…ちゃんと、わかってます」

緊張して少しこわばり気味だったの身体がふっとリラックスして、彼の腕の中に心地よい重みが委ねられた。

些細な仕草、小さな癖、そんなものがすべて愛おしくてどうしようもない人。

君しか見えない、君がすべてと言うことも難しくはなかったけれど、…本音ではなかったから。

プロポーズとしてはあまり歓迎されないだろう言葉を彼はそれでも連ねた。

大事な言葉だから、本当のことを伝えたかった。

結果、は頷いてくれた…。

「そういう秀一さんだから、好きなの」

見上げてくる妻の視線に微笑み返して、彼はそっと今日最初のキスを贈った。

「秀一さん、ビデオ用意したら、ホントにもう一回プロポーズしてくれる?」

唐突に蒸し返された話題に、彼は目を白黒させた。

「永久保存版にしとくから」

悪意ない笑みを顔中に浮かべる妻に、血の気が引く思いなのは今度ばかりは彼のほう。

「冗談だよ、今になってそんな恥ずかしいことできるわけないよ」

「あら、嘘つき。さっきは自分からやってあげよっかって言ったのに」

言葉を失って急に静かに焦りだした夫を見上げて、してやったりと満足げな

此度はお嫁さんに軍配が上がったようだ。


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バトン類話お嫁さん編。
蔵馬ならうだうだプロポーズしそうだなぁと思いました。
君がいちばんじゃないよというのは雪花さん的かっこいい男の人。
仕事人間というのとは違う意味で。