五月生まれのあなたへ


起きて!

耳元で誰かが小声で、でもはっきりと叫んだ。

はぱっちり目を覚ました。

いつもなら寝起きはものすごく悪い、けれど、今は頭の奥が冴え冴えして気持ちいいくらいだ。

体を起こすと、耳元で聞こえたはずの声のあるじらしき姿はなにもない。

目覚まし時計は朝四時を迎えるところ。

なんでこんな時間にすっきり目覚めてしまったのかわからなかった。

わからないけれど、予感があった。

根拠のない予感。

は立ち上がって、少しやわらかく寒い空気から肌を守るように自らを抱きしめる。

外はぼんやりとも明るくなっていない、まだ昨日の気配が少し残るような濃い藍を掃いて。

カーテンを引いて見下ろすと、そこに予感の源が立っていた。

、彼の口がそんなふうに動いた。

窓を開ける、吐いた息が薄い霧になって、消える。

「おはよう、よく気付いたね?」

蔵馬は少し抑えた声でそう言った。

「おはよう! どうしたの?」

寝起きの姿をそのままさらしていることになど微塵も気付かず、は口元で微笑んだ。

「ちょっと付き合って、急いで、五分で降りてきて!」

「え?」

「五分! それ以上待てない!」

「ええ?」

「ほら、もう四分! 過ぎたらさらって連れて行くから!」

わけもわからず急かされて、は急いで部屋に引っ込むと放り出してあった服を身につけて、

手で荒く髪を整えてからすぐに外へと飛び出した。

肌寒い空気がちりちりと肌を撫でてゆく、そこはまだ夜明け前。

「行くよ、間に合わなくなっちゃうかも…」

蔵馬はの手を引いて走り出した。

「どこに行くの!?」

「いいから! 黙って着いてきて!」

痛いほどに腕を掴んで、蔵馬はを振り返ることもなく走った。

そんなに急ぐのなら抱えて走ってくれてもいいのにとちょっと思ったが、言わないでおいた。

「どこに行くのってば!」

「いいからってば!」

意味のないような応酬には閉口する。

しばらく黙ったままふたりは前後に並んで走り続けていたが、蔵馬は唐突に言う。

「誕生日…!」

「え?」

「今日、誕生日でしょ! が生まれた日…!」

はぽかんと、振り返らない彼の背を眺めながら頷いた。

見えてはいないはずの肯定だが、彼はその返事を待っていたかのようなタイミングで続ける。

「今日の始まりを見に行くんだ、夜明けを」

ほら急いで、明るくなってきたと蔵馬は焦った声で言った。

住宅地を抜けて、少し奥に沢と森とが続いている。

蔵馬は視界の開けた丘の上までやってきてやっと走るのをやめ、の手を離した。

お互いにぜぇはぁと肩で息をしながら、夜明けの景色を見る前に草の上に転がってしまった。

蔵馬はこの程度で息を切らすではないだろうけれど、

今の彼には人間とか妖怪とかそういうことはあまり関係なくて、

一緒に走って一緒に疲れた、そういうことなのだろうとは思った。

「本当は、さ、昨夜…夜中の、12時に、電話でもメールでもしようと思ってたんだけど、」

息を継ぎながら蔵馬は言った。

「誕生日、こういう風に、始めてもいいかな、って、…」

はぁ、と大きく息を吐くと、蔵馬はゆっくり起きあがった。

まだ寝転がるを斜めに見下ろして、なんだか嬉しそうに微笑むのだ。

「日が、昇るよ…起きないの」

せっかく連れてきたのに。

「だるい…」

くすくすと笑いながら、はまだ落ち着かない呼吸をゆっくりとなだめていた。

「いいアングル。このまま貰っちゃってもいい?」

「…私の誕生日だよ、蔵馬が貰う日じゃないもん」

「じゃあ、あげるよ」

「なにを?」

うーん、と蔵馬は一応、考え込むように唸ってみせるが、その顔に迷いはないのだ。

頬のあたりに唇を寄せて、お祝いのキスを、と囁いた。

横向きのの顔を上に向かせて、唇を重ねてくる。

いつもの悪戯なキスではなくて、優しくて、甘ったるい。

はうっとりと目を閉じながら、頬のあたりに落ちてきた彼の髪に指を絡めてみる。

蔵馬は薄く目を開けて、また嬉しそうに笑うと身体まで重なるようにもっと深いキスをしてくる。

肌寒かったはずの空気が柔らかく熱を帯びて、

なにもかも愛しくてたまらないような空気が身体中からにじみ出る気がする。

蔵馬に伝わっていたらと願った。

やっと少し離れると、蔵馬はいつものようににこりと笑って、

さぁお姫様、お目覚めの時間───などと言ってみせる。

は苦笑しながら起きあがった。

その視界に飛び込むのは、緩やかに弧を描く街のかげからのぼる光の渦だ。

昨日の夜に藍の中に落ちた光が、また渦を巻いてゆっくりと姿を現す。

一日が今日も始まる。

毎朝、人々の眠りのうちに繰り返されているはずの光景が、こんなにも胸を打つなんて。

言葉を失って、はしばらくその景色に見とれた。

座り込むの後ろから、蔵馬は包み込むようにの身体を抱きしめた。

耳元に柔らかなキスが何度も繰り返される。

「誕生日おめでとう、」

囁いた声がじかに耳に吹き込まれるようだ。

「いい一年になるといいね」

そう言って彼はまた微笑んでいるのだろう。

朝日から目をそらすことができないまま、それでもはそう思った。

うん、とは頷いた。

「いい一年にしようね。蔵馬も一緒にね」

そう言って、蔵馬の胸に背を預ける。

たぶん今の蔵馬は少し面食らったような顔で、やがて照れたようにまた微笑むのだろう。

抱きしめてくる腕に力が込められるのを感じて、は安心して目を閉じる。

昨日までも今日からも、ずっと蔵馬がこうして捕まえていてくれる、それで充分なのだ。



のぼり来る朝日に背を向けて、家への道を今度は手を繋いで歩いていく。

話はしないけれど、お互いのいいたいことはわかった。

ちらりと蔵馬を見上げると、蔵馬もこちらを見ている。

そうして目線が何度か絡んで、微笑みあってまたそれぞれ前を向く。

途中で見つけた自動販売機で温かなお茶を買った。

繋がれていない手を缶であたためながらまたゆっくりと歩き出す。

公園でも鳥でも花でも、見つければ立ち止まって寄り道をした。

大きな出来事もスリルもなくてもいい。

退屈に近いくらいなにもない日がずっと続いてもいい、ふたりでいられたらそれで。

黙ったままで、繋いだ指先にだけお互いの意志を交わしながら。

それぞれが前を見て、ときどき目線を交わしながら、同じことを考えていた。

始まった今日を一緒に歩き始めて、さぁ、どんな日を綴ろうか。

紡がれる日々に一年が過ぎて、来年の今日にまた朝日を見るとしたら、

そのときはきっと蔵馬と一緒にいるだろう。

それはやっぱり根拠のない予感だけれど、それでも確かには感じた。

指先に感じる蔵馬の体温が、と同じ願いを告げるようにしみ渡る。

そうしてまた目を見合わせて笑いあうふたりを、柔らかな朝の光がそっと包み込んでいった。



■■■ 雪花から五月生まれのあなたへ ■■■

早朝の空気が澄んでいて好きですが早起きができません…
雪花と当サイトの蔵馬より、
五月生まれのあなたへ贈り物です。

よいお誕生日、素敵な一年となりますように。

雪花より。


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