四月生まれのあなたへ


いい季節になったなぁ、などと思いながら、蔵馬は桜の花のほころび始めた下を歩いていた。

まだ満開とまでは行かないだろうか、しかしなかなか風情があって見物だ。

風もそろそろあたたかになってきて、木は芽吹き、つぼみは膨らみ、花が咲いて。

春だ…なんて思いながら、みんながみんな伸びをしたりあくびをしたりする。

蔵馬の恋人は、こんなふうに桜の花が咲き誇る春に生まれたそうだ。

確かに彼女のそばにいると、春の優しい日差しを浴びているような、

咲き誇る花を見つめているような、春風に吹かれるような…なんとも言えない気持ちがこみ上げる。

こんな日に可愛い彼女は部屋から出ることも出来ずにいる、可哀想に。

世界中のすべてのものが新しく生きることを始めるこの季節に、風邪の菌をもらったらしい。

とんだバースディ・プレゼントだ。

風邪がうつるからといって彼女は蔵馬の見舞いを断ったが、あんなかすれ声での拒否なんて聞けるものか。

人間界の風邪程度でダウンしたりはしないさとお得意の舌八丁で彼女を言いくるめて、

蔵馬は見舞いに訪れようとしていた。

昨夜はずいぶんと風が強かったけれど、桜の花はまだ散ることもせずに枝にしがみついている。

儚い花だから、殊の外けなげに思えて愛らしい。

桜は蔵馬も好きな花だ。

寝込んでいるは、花見の時期を逃してしまうかもしれない。

足元に転がる枝に目を留めた。

昨日の強風に煽られて折れてしまったのか。

しばらくその枝を眺めたあと、蔵馬はおもむろにそれを拾った。

水滴を含んでまだ瑞々しい、若い枝だ。

ほのかに桜らしい香りが漂った。

何かに酔ったようないい気分で、蔵馬はまたの部屋へ向かう歩調を早める。

せっかくの誕生日に、たったひとりで風邪と闘いながら寝て過ごすなんて。

心細がっている恋人を思うと、やっぱりいても立ってもいられなくなる。

すれ違う人が目を見張るくらい唐突に、蔵馬はいきなり走り始めた。


一方その頃。

赤い顔でゼイゼイと息をしながら、は体温計の文字を読みとろうと必死になっていた。

どうも文字の線が二重に被って見えないか?

(やば…見えないけど熱高いんじゃないかな、これ)

薬を飲もうにも起きあがるのが困難だった。

布団から出れば寒いし、寒さを感じた肌がぴりぴりと痛むようだし、

水を飲もうならその温度すら刺激になりすぎていけない、お湯を沸かす元気もない。

寝ているしかないこの状況が誕生日とは。

蔵馬と約束をしていたのに、彼も楽しみにしてくれていたはずなのに。

「………くらまぁー」

朦朧とした意識で彼の名前を呼んでみる。

誰もいない部屋で、逢いたい人の名前を熱に浮かされて連呼するくらい、の自由だろう。

なんだかわけのわからない思考回路で、はまた熱い息を吐いた。

「呼んだ?」

すぐ近くで蔵馬の声が聞こえた気がしたが、絶対熱のせいで起きた幻聴だ。

「可哀想に、つらいだろうね…すぐ楽にしてあげる、ちょっと待ってて」

ひやりとした指がの額に乗せられた。

「………あれ」

「ここにいるよ。ずいぶん熱がある。どこからこんな風邪拾ったの、君って人は」

「マボロシ…」

「いーえ、現実」

「熱のせいだもん…」

お見舞い来ちゃダメって言ったもんと、はもぞもぞと蔵馬に背を向けようとする。

「参ったな。どうしたら信じてもらえるかな…?」

蔵馬は向こうを向いてしまったを困ったように見下ろすと、その頬にそっとキスを落とした。

「…蔵馬…?」

「うん。心配しないで、ここにいるからね」

「…頭痛いの…」

「薬は飲んだ?」

はふるふると首を横に振った。

熱に喘ぐ顔は赤く染まって、荒い息を紡ぐのど元から胸がかすかに上下する。

つらそうな顔では目を閉じた。

「…なんか」

「…え…?」

挑発されてるみたいだよね。

ぼんやりとしてしまっているにこの言葉は届かないだろうなんてちょっと計算しつつ、蔵馬は立ち上がる。

とにかく薬を飲ませよう。

怪しげな葉っぱの山がテーブルに出現する。

本人に一見グロテスクな魔界の薬草を見せると多分飲みたがらないから、見えないように。

見事な手際で薬草を選び出すと、キッチンを借りてなにやら鍋の中をかき回す。

の寝ている部屋からは見えないはずだが、なんだか不安そうな声が彼を呼んだ。

「どうしたの?」

は黙って首を横に振るばかり。

熱のせいか、不安なのか。

(それとも、甘えたいのかな)

そう思うとやっぱり彼女が可愛らしくて仕方ない。

つい緩む口元を誤魔化すように咳払いをひとつ。

「…なんのにおい…?」

「え?」

「さくらもち…」

先程拾った枝をそのまま持ってきたのだ。

それにしても、桜もちとは。

思ったより気力はあるらしかった。

「桜の枝だよ。昨日の風で折れてしまったみたいなんだけど」

外はすっかり春だよ、桜ももうすぐ咲くよ。

「風邪を治して、一緒に見に行こう、桜」

「…うん」

髪を撫でてやると、は嬉しそうににこりと笑った。

息が苦しいときにどうかなと思いながら、蔵馬はたまらずにの唇を一瞬だけ奪う。

「…ん…?」

「ちょっとだけ、ね、これ以上は我慢するから」

「うん…?」

蔵馬の言葉を噛み砕くだけ頭が働かないらしい。

とろんとした目線を向ける。

「薬を飲んだら一眠りして」

「くらま…」

「なに?」

「そのあいだに帰っちゃう…?」

潤んだ目で見上げられて、そんなことを聞かれたら…NOとは言えない。

もとより言うつもりもなかったけれど。

「ずっといるよ、大丈夫。安心して眠って」

キッチンでちょうど良い具合に煮立った怪しげな液体をマグに移すと、ベッドサイドまで持っていく。

「…魔界の薬草の青汁なお薬はイヤぁ…」

「わがまま言わないの」

ぐったりとした身体を抱き起こす。

「よく効く薬は苦いものでしょ、ほら」

マグを唇にあててやる。

はおそるおそるちろりとそれをすすった。

「…………うぇ」

「ほら、頑張って」

「やだぁ」

今日のはまるで子供のようだ。

いつもなら言わない口調に、小さなわがまま。

意外な一面を発見したようで、蔵馬は嬉しくなって微笑んでしまう。

「甘くしてあげようか」

「…うん」

蔵馬が裏に持たせた含みなど、が理解する余地はなかっただろう。

蔵馬は片腕でを支えてやりながら、自分で薬を一口含むと、に口づける。

ぼんやりとしていながらさすがに驚いたらしい、は一瞬怯んだ様子を見せた。

口移しで薬を分けて与えながら、の顔が赤い理由がちょっとずつ変わってきたんじゃないかと蔵馬は思う。

最後の一口を飲ませ終えると、そのまま呼吸に無理のないようにキスを与え続けた。

「…くらまぁ…」

まだかすれ気味の声が、いつもより幾分切なそうに彼を呼んだ。

「苦しい?」

蔵馬に抱きしめられながら、は上気した頬でうっとりと目を閉じた。

「だいじょうぶ…」

「…甘くならなかった?」

「……う、ん…?」

ちょっと納得行かないらしい。

風邪で朦朧としているときにこの手は有効じゃないらしいと蔵馬は脳裏で考えた。

を寝かせて、もう一度キスを贈る。

数時間は目覚めないだろう、そのあいだに熱が引くといいけれど。

キッチンで薬草をいじったあとを片づけながら、蔵馬はちらちらとの様子を伺った。

災難な誕生日だね、

でも、きっと今日のことは忘れないよね。

目を覚ましたら、おめでとうを言おう。

内心でそう思いながら、蔵馬は穏やかな気持ちで恋人の寝顔を見つめるのだった。



夕方になって、はうっすらと眠りから覚めた。

外で子供達が遊んでいるらしい声が聞こえる。

ふと部屋の中に目を向けると、すぐそこに蔵馬がいる…眠っている。

ずっとの寝顔を見守っていたのだろうか。

ベッドのすぐそばの床にぺたんと座り込んで、の手を握りしめたままで。

起きているときよりも寝顔はあどけなくて、少年のようだ。

「…くらま」

呼んでみるが、まだ目を覚ます気配はない。

寒気と熱っぽさは、陰かたちなく引いていた。

ふと、鼻腔をかすめる独特の香りに気づく。

さきほどさくらもち、なんて言った気がするが、桜の枝だと言っていただろうか?

ふとベッドサイドを見ると、先程のただ折れた裸の枝が芽吹き、花を咲かせている。

「…わぁ…」

が今年最初に見た桜だった。

ねぇ、咲いてる、と言おうとして…気持ちよさそうに眠っている彼を起こすのをためらった。

たぶん、蔵馬や彼の仲間たちがくぐり抜けてきたどんな壮絶な戦いに勝つよりも、

あらゆる世界を支配するよりも、ただこの眠りを守るほうが難しい。

いつも蔵馬がを背にかばって守ってくれるのに、やっとひとつお返しが出来ると思った。

幸せな眠りなら、私がそれを守ろう。

が蔵馬を守る、唯一の術だ。

彼が握りしめていてくれた指先があたたかい。

風邪を引いて寝込んでも、どんなに苦しくても、こんなに幸せな誕生日がある?

彼の髪を撫でると、ふと長いまつげが揺れた。

ゆっくりと目を覚まし、のほうに顔を向ける。

「…おはよ」

微笑んでみせると、蔵馬はしばらくぼんやりとしたあと…穏やかな笑みを浮かべた。

「…誕生日、おめでとう」

夢から覚めたら、絶対にすぐに言おうと思っていたんだ。

彼はそう言って、はにかんだように笑った。

そうして微笑みあったあとで、どちらからともなくキスを交わす。

当たり前の幸せを噛みしめるふたりを、春いちばんの桜がひそやかに見守っていた。


■■■ 雪花から四月生まれのあなたへ ■■■

春の風と最初の桜と一緒に、あなたにも春が来ますように。
雪花と当サイトの蔵馬より、
四月生まれのあなたへ贈り物です。

よいお誕生日、素敵な一年となりますように。

雪花より。


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