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三月生まれのあなたへ


電話で、彼女は寂しい、と言いました。

どうして、と蔵馬は聞きました。

寂しいなんて言われるようなことをした覚えはなかったから。

こうして電話もして、会う約束もして、一緒にいたら手を繋いだりキスしたり、

もっともっとそばにいることだってあるのに。

わからないの。

どうしよう、わからないの、と彼女は繰り返しました。

機械を通して耳元に響く彼女の声は泣いているような色でした。

ときは三月、別れの季節。

だからかなと聞いたら、そうかもしれないと彼女は言いました。

いっぱいいろんなことを諦めて諦めて、たくさんのものと別れて別れてきたから、

三月は理由もなく寂しいのだと言いました。

(でも、ねぇ、

新しく始めるために、生まれるために、諦めることも別れることも必要だったりするんだよ。

それは悪いことでも寂しいことでもないよ。

「別れたらまた出逢えばいいよ」

『逢えないかもしれないもの』

「探しに行くよ、に逢えるまでどんなに長くてもオレは待てるよ」

『私は待てないよ』

「じゃあ、すぐに追いかけるから」

『今も?』

「今も。五分だけ、それだけ待っていて」

約束は明日だったけれど、蔵馬はすぐに立ち上がりました。

明日は今の蔵馬にとっては多分一年でいちばん大切な日…の生まれた日。

時計の針はもうすぐ0時。

電話で話しながらおめでとうを言えるかなと思っていたけれど、直接言えた方がきっと素敵に違いない。

そんなことを考えながらコートを羽織って、蔵馬はまだまだ寒い外へ窓からぽいと飛び出しました。

最近ではこういう外出は少なかったんだけどなぁ、なんて思いながら。

五分のあいだも寂しくて、彼女はまた泣いているかもしれません。

電話の声も、メールの文字も、確かなものではあり得ないから。

そばにいるよという約束も、愛しているよという告白も、目に見えたり手に触れたりはしないから。

本当にそこにいて抱きしめていてあげるのが、今のにとって一番安心することなのでしょう。

夜の闇を裂いて、蔵馬はただ走り続けました。

逢いたい、というわがままの、なんて愛おしくて幸せなことでしょう。

すぐに寂しくなくなるよと、頭の中でに語りかけながら、本当に彼女に逢える瞬間まで、あと何秒か。

玄関に回り込むほうが時間がかかるしなにより面倒だったので、

蔵馬はの部屋のベランダにすとんと降りました。

カーテンに遮られて部屋の中は見えないけれど、彼女がそこにいるのはわかります。

ガラスを指で叩いてみました。

ここにいるよ、と。

カーテンが開いて、彼女は涙目でそこにいました。

ガラスを隔てたままで、彼女は蔵馬をじっと見つめています。

は怒るかもしれないけれど、ただ寂しくて逢いたくて泣いてしまった彼女が可愛くて、

蔵馬はふっと笑ってしまいました。

「ここを開けて、」

蔵馬は口をぱくぱくさせて、かかったままのガラス戸の鍵を指さしました。

ちゃちな鍵を開けることくらい蔵馬にはなんてことなかったけれど、

この部屋にだけは無理矢理入るようなことがあってはいけないのです。

が招き入れてくれるまで、蔵馬はじっと待っているつもりでした。

はすぐに鍵を開けて、約束の五分のあいだに少し冷えてしまった蔵馬の身体に抱きつきました。

「五分間、寂しかった? 待たせてごめんね」

蔵馬はの髪をぽんぽんと撫でてやります。

はしばらくそのまま動こうとしてくれませんでした。

「風邪を引くよ、」

そう言うと、は泣きはらした目で蔵馬を見上げて、ごめんね、というような顔をしました。

袖を引いて彼を中に招き入れようとします。

蔵馬はちゃんと靴を脱いで、それを持って部屋にあがると、お邪魔しますと頭を下げました。

はそれでやっとちょっとだけ笑ってくれました。

入り込んだ部屋はそれでも妙に冷えていて、暖房を切っているらしいことにはすぐ気づきます。

「風邪を引くよ」

もう一度同じ言葉を繰り返しました。

玄関に靴を置きに行って、またリビングに戻って、ただそれだけのあいだをは蔵馬にぴったりとくっついてきます。

なんだかそれがちょっとおかしくて、蔵馬はを抱き寄せてくすくすと笑いました。

の手を取って、自分の頬に当てます。

「ほら、ここにいるよ。もう大丈夫でしょ」

そう言うと、は素直にこくんと頷きました。

の気がすむまでずぅっとそばにいるよ。寂しくなくなるまで」

はまたこくんと頷きました。

それでも蔵馬から離れる気配がないので、ふたりは家の中を移動するときもずっとぴったりくっついたままでした。

蔵馬はまず暖房のスイッチをオンにして、なにかあたたかな飲み物を作ろうとキッチンに立ちました。

の家のことはもう大体把握している蔵馬です。

紅茶の葉やコーヒーの瓶がしまわれている棚を開けると、奥にココアの粉があるのを見つけました。

甘いものが好きながミルクとお砂糖を切らしていることはないから、今日はココアにしてみよう。

蔵馬はにぴったりしがみつかれたままでお鍋にミルクを注いで、それを火にかけました。

は蔵馬の背中にそっと抱きついてきます。

蔵馬はまた笑いながら、ちょっとを振り返りました。

「火を使っているから、危ないよ」

「大丈夫なの」

目を閉じて背中にすり寄ってくるの体温はとても心地よく感じられます。

蔵馬はにしがみつかれたままでお鍋の中をかき回しました。

金属が軽くぶつかり合う音だけが響いています。

その間をぬうように、静かな声では言います。

「…蔵馬とお別れするのがいちばん恐いの」

が言うのは、種族の違いや越えられる時間の長さの違いのことでしょうか。

「…お別れしないよ」

蔵馬はとても、普通の声で言いました。

「今はしなくても、いつかはするかもしれないんだよ」

が蔵馬を抱きしめている腕が、少し緊張したようにこわばっています。

「だからね、誕生日が嬉しくないの…またひとつ年を重ねて、その日が近くなっちゃうから」

せっかくお祝いしてくれるって言っていたのに、変なことを言ってごめんねとは言いました。

お鍋の中には甘いココアができあがっていて、カップに注がれるのを待っています。

バターをひと欠けその中に落として、蔵馬はまたお鍋の中をかき回しました。

そうして黙り込んだふたりのあいだに、甘い香りがふわふわと漂っています。

「…世界も時間も、ひとつ終わってまたひとつ始めて、そうやって何度も巡っているよ」

蔵馬はそう言って、食器棚からカップをふたつ取り出しました。

そのあいだも、やっぱりは蔵馬から離れようとしません。

しがみつくのはやめても、蔵馬の袖を握ったままでずっとそばに立っています。

「オレたちは巡るひとつひとつがとても長いから、その間に他のひとつが終わってしまうこともよくあるけれど」

火を止めて、カップにココアを注ぎます。

は蔵馬の手元をぼんやりと眺めていました。

「…ひとつが新しく始まるところにも出逢えるんだよ。

 がひとつを終わるときも、その次に新しく始まるときも、必ずオレがそれを見ているから」

蔵馬はやっと身体ごとのほうを振り返りました。

のまっすぐな視線を、蔵馬もまっすぐに見返します。

「昨日も今日も明日も、いつのでも何歳のでもずっと好きだよ」

の目元にかかった髪をそっと指で拭うと、の目が潤んでいるのがよくわかりました。

泣かせたいわけではなかったけれど、今言える本当の気持ちをただ伝えようと蔵馬は思いました。

かち、と硬質な音がして、壁に掛かっていた小振りのからくり時計が0時を告げました。

オルゴールのような音楽が流れ、人形たちがくるくると回っています。

「ほら、0時。…また新しく始まったんだよ」

時計を見つめながら、蔵馬はそう言いました。

「今から始まった時間が来年の昨日で終わるまで、ずっと一緒にいるよ。もちろんそのあとも。約束」

蔵馬はにっこりして、の手を取ると小指を結んで指きりをしました。

「誕生日おめでとう」

「…嬉しくないもん」

「そんなこと言わないで。君が生まれなかったら、オレは今どうなってると思うの?」

と会わなかった人生があったとしたら、絶対今よりつまらないよと蔵馬は言いました。

まだふくれっ面のを大事そうに抱きしめて、蔵馬は子供をあやすようにゆらゆらと身体を揺らしてみたりします。

「可愛い。不機嫌でも可愛い。泣いてても可愛い。どうしよう?」

耳元でそんなことを言われて、の頬はほんのり赤く染まります。

「どうにかしたいんだけど、どうしていいかわからないし実際どうしようもないんだよ」

そろそろセリフが支離滅裂です。

でもなんとなく蔵馬の言いたいことはにもわかります。

だって蔵馬が好きでたまらなくて、どうしていいのかわからないことがあるのですから。

「大好き?」

蔵馬にぎゅぅと抱きしめられながら、はすぽんと抜け出すようにして顔を上げました。

可愛い彼女にそうやって見上げられて、子供のように尋ねられて、蔵馬もなんだかわけもなく嬉しくなります。

「大好き。どうしようもないくらい。キスしてもいい?」

の答えを待たずに、蔵馬はの唇に軽くキスを贈ります。

そのまま何度もキスを繰り返されて、唇から離れても頬や額や耳元に蔵馬が口づけ続けるので、

は困ってしまいました。

「やだ、はなして」

蔵馬はおやおや、心外だなと言ってちょっと離れます。

「寂しくてどうしようもなくって、一瞬だって離れようとしなかったの、のほうでしょ」

「そうだけど、」

恥ずかしそうに俯いたを見て、やっといつもの彼女らしくなってきたことに蔵馬はほっとしました。

「…ココアが冷めちゃうよ」

「ああ、忘れてた」

蔵馬はそういえば、というように放っておかれたままのココアを振り返ります。

「上手い逃げ道を見つけちゃって」

蔵馬はちらりとに不機嫌な視線を送ってみます。

は困ったように肩をすくめました。

ココアを両手に持った蔵馬と、その袖口を掴んだまま離そうとしない

ふたりでソファに並んで座ります。

蔵馬から手渡されたココアはまだあたたかくてとろんと甘くて、の不安も溶けてゆきそうでした。

口移しで飲ませてあげようか、と言って蔵馬がからかうと、は真に受けて赤くなってしまいます。

そんなを見つめてやっぱり可愛い、大好き、と連発しながら、

蔵馬は今日は朝になるまでずっとのそばにいてあげよう、なんて優しい気持ちで思うのでした。

■■■ 雪花から三月生まれのあなたへ ■■■

なんでもない一日のような誕生日も幸せかもしれません。
雪花と当サイトの蔵馬より、
三月生まれのあなたへ贈り物です。

よいお誕生日、素敵な一年となりますように。

雪花より。


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